イラスト共に片桐 貞夫
「冗談じゃねえ。血が出てるじゃねえか!」
メガネのない新平が半泣きの声を上げた。
「帰ろ。なっ? 医者に見せるんだ。…ウウウ…」
十八才でしかない二人はジャップタウンの親のもとに住んでいる。町から離れたレッドウォールズ(崖)の下であった。
「傷はたいしたことねえ」
しかし、そう言うジョージにも後頭部の痛みが解らない。立ち上がることすらがおぼつかなかった。
「だめだ。…ウウ…帰ろ。なっジョージ」
「いや俺は見てえ。…今度のは凄ぇんだ」
このニキシク海峡は年になんどか大潮になる。二人してデッドマン岬に行ってその激流を見るのは少年時からのことであった。
「すぐに帰った方がいい」
「かすり傷よ」
「ジョージ、帰ろ」
新平にはわかっていない。五人の白人を殺傷してしまったジョージが、父と兄の待つジャップタウンに帰れないということがわかっていない。闘争の場を逃れた新平はジョージだけが傷を負ったと思っているのだ。
「なっ、帰ろ」
「チクショー…たのむ…たの…みてえんだ」
ジョージの途切れ気味の口吻に新平がはっとした。下を向いているのでよく判らないが、ジョージの声が泣いている。ジョージの泣き声を聞くことなど初めてのことであったのだ。
岩の上まであと数歩というところで比嘉ジョージの肉体が力尽きた。新平の肩に巻きつけていた手がゆるみ地に落ちた。
「どうした!」
新平が声を上げた。新平はジョージのケガの実体を知らない。ジョージの言葉を信じて、それをかすり傷と思っていたのだ。
「ジョージ、なんとか言え。どうしたんだ…ウウ」
ジョージは、頭をたれたまま新平の声を遥かかなたにきいていた。地に落ちる前にチラリと見えた光景を思っていた。
それは茫洋たるものであった。
雲が垂れ込め天と地が一体になっていた。雨にけむる黒い海が右手に入り、遠く入り込んでタッパー湾となる。それを遥か遠方に霞むディスカヴァリー水道と仕切っているのがオッター岬であった。ニキシクの海峡は左にある。真っ白に渦巻いて太平洋へと繋げている。まだ大潮は二時間も先であるというのに、ディスカヴァリー水道の水は扇状に流れを速め白さを増して海峡を目指す。ゴーゴーと唸って渦が沸き返っていた。
幅七百メートル、長さ八キロの海峡は膨大なディスカヴァリー水道の潮の吐き出しが追いつかず、大潮時の出入り口の落差は五メートルにも及ぶという。瀑布と言えた。何の妥協も許さない。どんな巨船をも沈めんと怒り狂うのであった。
「俺なんか、俺なんか死んじまえばいい。…すまねぇ」
自らのふがいなさを思ったのであろう、ラピッド(激流)を見降していた新平がつぶやいた。
「ニキシク」…それは地元のインディアン、ヌースカ族の言葉で「新しい入り口」を意味した。天国への門という意味が含まれてたが、新しく入植した白人たちは「デッドマン」と誤訳した。デッドマン岬という地名が正式についてしまった。古来、ヌースカ族のインディアンは、「望まれるべき死」というものをこのニキシク海峡の大潮に託した。この海が生きる目的を失った者、不治の病で苦しむ者たちをやさしく導き、天国への架け橋とされてきたのだ。
ジョージは、小学生の頃から新平とよくヌースカの集落へ行った。そこはリン・コッドというたらの釣れるオッター岬の近くにあり、インディアンたちはいつも二人を快く迎えた。
ある大潮の日、ジョージは奇妙な化粧で顔を塗り、黄色いマントのようなもので身をおおった老婆が集落のロングハウスの入り口に坐っているのを見たことがある。見覚えのない老婆であったが、二人を見るとニコニコと手招いてわけのわからぬことを言った。そばにいたインディアンの子供が、この日がこの婆ちゃんの「ニキシクの日」だと言った。命日ということであった。
(続く)