2019年6月27日 第26号
6月22日、ブリティッシュ・コロンビア州リッチモンド市 スティーブストン・コミュニティー・パーク内に造られたスティーブストン・ニッケイ・メモリアル(スティーブストン日系記念公園)の除幕式が、200人を超す人々の見守る中で行われた。
制作に当たった皆さん(写真左から)仲山星司さん(Ogawa Landscape Design、以下OLD)、渡辺久美奈さん(OLD)、Lesia Mokryckeさん(Hapa Collaborative、以下HC)、Kelvin Higoさん、Joseph Fryさん(HC)、小川隼人さん(OLD)、Pengfei Duさん(HC)、天谷華子さん(HC)。写真には写っていないが石井高明さん、塚田洋章さんも施工に携わった
スティーブストン日加文化センター諮問委員会(Steveston Japanese Canadian Cultural Center Advisory Committee)とリッチモンド市の主導で、 日系文化センター・博物館、スティーブストン・コミュニティー・ソサエティの協力を得て造られた日系記念公園。ここには日系カナダ人(以下日系人)の過去の体験に思いを馳せ、人種や民族を越えて共生する未来に目を向けるメッセージが込められている。
背景にある日系人強制移送と地域貢献の歴史
第二次世界大戦が始まってからカナダに住む日系人が「敵性外国人」とみなされ、財産を没収され、カナダ西海岸から100マイル以東への強制移送が開始されたのが1942年。それから7年後の1949年4月1日にようやく西側へ戻ることが認められた。戻ってきた日系人たちは、その直後から地域のためにと貢献を始める。スティーブストンにおいては、スティーブストン・コミュニティー・センター創設(開館1957年)のための多額の支援、さらに日系人の地域とのつながりと寄付により、海外最初の武道館やスティーブストン日加文化センターが建てられた。各施設は地域の人々の豊かな生活につながっている。これらは日系人の多くの地域貢献の目に見える例に過ぎない。
人種差別に耐え、困難から立ち上がり、地域へ貢献していった日系人。その姿勢をたたえる記念物建設案のリッチモンド市への申し出は強制移送開始から75周年にあたる2017年のことだった。そして日系人がカナダの市民権、参政権、移動ができる自由を獲得した1949年から70周年の今年、記念公園の除幕式を迎えられたのである。
「仕方がない」の言葉にあった思い
除幕式のオープニングではリッチモンド市のマルコム・ブロディ市長の挨拶の後、本プロジェクトを進めたスティーブストン日加文化センター諮問委員会のバッド・サカモトさん、ロイ・マツヤマさん、ジュリー・マツヤマさん、ドン・ムカイさん、シオコ・ムカイさん、ダン・ノムラさん、ブレンダ・イェトリさんを同会会長のケルビン・ヒゴさんが紹介。そしてケルビンさんは同プロジェクトに尽力した多くの人々を紹介した後、「和解とは変えられない過去に向かうのではなく、将来に集中すること。寛大な精神で互いに奉仕と恩情を表していくこと」という主旨のブライアン・リー・コウリーさん(*)の言葉を引用し、「こうした言葉は親や祖父母がよく言っていた『仕方がない』の意味をよく表していると、私の中で感じています」と語り、本稿前段に記した本プロジェクトの背景や主旨を伝え、「ここスティーブストンでの日系コミュニティーの社会貢献は、異なる文化や伝統を持つコミュニティーが協力しあい、より良い社会にできるというカナダの多民族国家主義の模範となっています」と述べた。(*マクドナルド=ローリエ財団の取締役で、引用されたコメントはビクトリア市庁舎前からマクドナルド元首相の銅像が撤去された際の言葉)。
また、戦前にスティーブストンの日系コミュニティが形成されて以来、その精神的な支えとなってきたスティーブストン仏教会からも生田真見開教師らが招待され、差別を戒める仏教の教えを説く読経を行った。
ストーリーが立ち上がる空間に
記念公園のデザインは景観設計会社ハパ・コラボラティブが担当した。デザイン検討に当たり、ハパのプロジェクトチームは地域住民にヒアリングを行った後、80歳以上の日系人とランチ会を持ち、個別に強制移送体験談の聞き取りも行って構想を固めていった。
ハパ代表で日系カナダ人3世であるジョセフ・フライさんは、同プロジェクトで実現しようとした3つの願いは「日系人の強制収容の経験が人々の記憶に受け継がれるように」「人種差別や偏見などについて人々が普遍的な会話を持てるように」「感情に訴えるような場所を創ることにより、来訪者が歴史に興味を持ち、個人の経験が共有される経験として広がっていくように」であったと除幕式で紹介。その考えから「一つの記念碑ではなく訪れた人々を瞑想へと誘い、厳粛な旅に誘う場作り」という発想が生まれたという。
その実現の形の一つはロケーションと小道。記念公園は人々の往来する場所にあり、公園の小道は日系人たちの強制収容所へ出発・帰郷に使われた路面電車の記念館へとつなげられた。また小道の敷石のデザインにも大きな意味があった。
折り紙手芸を小道で再現
体験談の聞き取りで印象的だったのが、収容所の暮らしの中、女性たちが缶詰のラベルを使って「石畳編み」で敷物やバスケットを作っていたこと。「過酷な状況でも普通の生活を続けていた女性たち。その行為は『静かな抵抗』のように感じた」とジョセフさんは語った。その石畳編みを玄武岩を使った敷石で表現したのである。
公園に植えられた2本の梅の木は、スティーブストンの多くの日系人が梅で有名な和歌山県出身であることの象徴だ。
星座のように散りばめられた玉
公園奥には大きい二つの花崗岩がある。向かって左側の石にはSTEVESTONと刻まれ、もう片方の石には強制収容所と捕虜収容所の名前が刻まれている。二つの石の間のギャップで「故郷から収容所への強制連行、引き裂かれた家族」を表現した。
ジョセフさんがデザインで苦労した点は「個人の体験をどのようにしたら共有できるか」だった。その工夫の一つとして、ブロンズの玉を地名のサインとして石に埋め込んだ。人々がブロンズ玉に触れることを通じて思いを共有するきっかけになることを願っている。
急ピッチで施工作業を進めて
施工は小川ランドスケープデザインが担当した。大きなクレーンで二つの巨石をいい案配に据えることが一大作業だったという。そして小道の敷石の組み合わせにも苦労があった。「各ペイビング(敷石)には1ミリ程度の大きさの違いがあるんです。それを並べていくと1センチほどの違いになることもあって」と小川ランドスケープデザイン代表の小川隼人さん。この日、除幕式は行ったもののまだ未完成。連日遅くまでの作業の中、地域住民に労いの声をかけられながら、まだ細かな作業が続いていく。
(取材 平野香利)
大勢の人が見守った除幕式はCBCテレビでも報道された
日系カナダ人の忍耐と貢献をたたえたリッチモンド市のMalcolm Brodie 市長
プロジェクトをリードしたKelvin Higoさんの手にしているのは小道の敷石のデザインのもとになった折り紙の手芸品。これが来場者に配られた
感極まりながら制作への思いを語るHapa Collaborative 代表Joseph Fryさんのスピーチを同社の天谷華子さんが日本語に通訳した
折り紙手芸の石畳編みを敷石で再現した小道
公園中央の梅の木を寄贈したサミー高橋さん、恭子さん夫妻。平野政己さん、千代子さん夫妻も梅の木を寄贈した
STEVESTONと彫られた左側の石。石と石との間の溝を適度に調整するため、公園に据えてからも石を手で彫り込んだという
ブロンズ玉の横に名前を彫り込まれているのは強制収容所や捕虜収容所、玉が埋め込まれただけの場所は強制労働などでの居住地