2018年1月25日 第4号

日系人強制移動を経験したひとりとして、当時の体験を後世に伝える活動に積極的に取り組んでいる堀井昭さん。バンクーバー日系社会では「ドクター堀井」として長年親しまれてきた日本語が話せる数少ない日系人医師だ。

現在は医師を引退し、日系人強制移動経験者の語り部として、また現在進行している「リルエット日系人強制収容所記念展示プロジェクト」にもかかわり活動している。

昨年は強制移動開始から75年、今年はリドレス運動から30年という強制収容を経験した日系人にとって忘れられない節目の年が続いている。強制収容について、現在の活動について、そしてドクター堀井としての思い出を聞いた。

 

堀井昭さん。リッチモンド市図書館の前で

 

日本語が話せる医師として日系コミュニティに貢献

 「ドクター堀井」としてバンクーバーで医師を始めたのは1961年。ブリティッシュ・コロンビア大学(UBC)医学部を卒業し、トロントでのインターン時代を終え、バンクーバーに戻ってきた。

 しかしUBCを卒業するまでが大変だったと振り返る。入学したのは1949年。その年にリルエットの高校を卒業して「両親がUBCに行ってもいいって言ったから」と入学した。強制収容政策が解除されたのも1949年。両親に余裕があるわけではなかった。

 1年後には大学を休学、漁師だった父親を助けるため自分もサーモン漁に加わった。その後、1951年には家族でバンクーバーに戻り、翌年に復学。それでも大学が休みに入ると漁師として父親を助けた。「UBCは4月の中頃に(学期が)終わるでしょ。終わったらすぐに北に行って仕事して」。大学に通いながら漁師も7年続けた。その間には命に関わるようなひどい盲腸炎も患った。「それで3年生がダメになったの」と笑いながら振り返った。

 医師になってからファミリードクターとして多くの患者と向き合った。「僕の患者はいろいろな人種の人がいて、日本人、インド人、中国人、白人といろいろ。ファミリードクターとして、なんでもしたから」。お産にも立ち会った。取り上げた赤ちゃんは700人以上。「それがファミリードクターとしての仕事だからね」。

 さらに、日系社会では日本語が話せる医師として頼りにされた。まだまだ父親世代の一世が多くいた時代。日本語は強制移動まで通っていた日本語学校で習っていた。「小学校5年生だった。それが僕の日本語教育だから、それまでしか分からない」と笑う。それでも患者とのやりとりができるほどの日本語。両親とは日本語で話したが、読み書きは5年生で止まったままだからと「今はもう、ひらがなと簡単な漢字が読めるくらいかな」と照れ笑いのような笑顔を見せた。

 2002年に一度引退。しかし、パートタイムでダウンタウンのクリニックに医師として復帰した。ダウンタウンだった理由の一つに日本からの若者が多いからというのがあったが、「仕事を始めたら僕の前の一世の患者がまた来だしてね」と笑った。

 堀井さんの記憶によると、以前は他に2人日本語を話せる医師がいたという。今はほとんどいなくて大変だろうと危惧している。日系3世の医師はいるが「僕の息子もファミリードクターだけど、日本語は話せない」。日本からの新移民も増えているし、「患者と医者とだけの話をするのが大事でしょ」、だから通訳はできるだけ介さないのがベスト。日本語ができる医師が増えればいいけど、と語った。

 

強制収容時代の経験を伝える語り部として

 2009年に医師から完全に引退した後は、強制収容時代の経験を伝える活動をしている。「とても苦労しました、リルエットで」。そう穏やかに語った。1942年に強制移動で行ったリルエットには入れてもらえなかった。それでフレーザー川の向かい東に6キロ離れたところで生活を始めた。それで「イースト・リルエットができたわけ」。

 飲み水も電気もなく、学校もない。飲み水は代金を払って井戸水を買ってトラックで運んできた。学校は親たちが建てて、高校を卒業した人たちが先生を務めた。「2年くらいしてちょっと差別が収まって、リルエット(の学校)に行けるようになってね」。学校まで約3キロの道のりを自転車で通った。冬の寒さは厳しかったと振り返る。

 それでも「一番苦労したのはお父さん。一世の人たちだね」。リルエットに送られた多くの人が漁師だった。しかし生活するために、農業に詳しい元農家の日系人と共に米やポテトやトマトの栽培を始めた。トマトは缶詰工場で加工するまでになった。

 リルエットでは7年間生活した。強制収容が終了しても生活がすぐに楽になることはない。父親は漁師を再開したくても船がない。当時、サーモン漁が盛んだったスキーナ川付近にある缶詰工場が、工場で働くことを条件に船を提供した。「多くの漁師がそういうふうに始めたね」と振り返った。「僕の家族は(バンクーバーに)戻るのに、2年待った。移ってくるお金がないから。バンクーバーに来てもどんなことしていいか、それでとても苦労したね」。

 また強制収容が終了したからと言って、差別意識がそう簡単になくなるわけではない。「僕が漁師始めた頃、『GO HOME, JAP』とか言ってたね。まだ、あの頃は『ジャップ』って言ってたからね」。

 現在はこうした経験を学校やBC州バーナビー市の日系文化センター・博物館で語っている。当時差別されていたのは日系人だけではない。中国人も差別をされた。「オリエントね。日本人、中国人。(白人たちは)セカンドクラスシチズンとして下に見ていた」。そうしたことも一緒に伝える。

 こうした事実を伝えるのは、カナダ国民でありながら日系というだけで国から強制収容を受け、自分たちが受けたさまざまな差別が、二度とこの国であってほしくないという思いからだ。三世の時代になり、人種を越えた結婚も当たり前になった。それでも「差別というのは、いつどんなところに表れるか分からないからね」と静かに言った。

 

「リルエット日系人強制収容所記念展示プロジェクト」の実現を目指して

 「(医師を)リタイアして、暇ができたために、あそこで苦労したことを残しておきたいと思っていてね。メモリアルができたらいいなって、この3、4年考えていたのね」。

 そんな思いが実現するのが、「リルエット日系強制収容所記念展示プロジェクト」。リルエットにある日系人関連文化遺産「宮崎ハウス」を実現した「宮崎ハウス協会」創設者で、プロジェクト発起人でもある鹿毛真理子さん提供の資料によると、リルエット近郊にあった3カ所の強制収容所、東リルエット、ミント、ブリッジ・リバーに記念展示を設置するプロジェクトだという。3カ所は、「BC州保安委員会が認めた7カ所の『自活地域』」に含まれていて、309人、322人、269人がそれぞれ収容されていた。

 しかし、この場所にはそうした事実を示す記念展示や説明書きのようなものが設置されていない。記念展示などがあれば、地元の生徒や、この地を訪れる人々に分かりやすいのではないかと今回のプロジェクトとなった。昨年4月には、カナダ150周年ということで、政府からの補助金2万ドルが決定した。昨年秋にはメモリアルガーデンが東リルエット収容所跡地を臨む場所に完成。それを記念して10月に宮崎ハウスで堀井さんが講演した。(2017年11月9日第45号新報レポートを参照)。3カ所は教訓として後世に伝えていきたい場所だ。

 「今の僕のアンビシャンはね、若者に伝えて、メモリアルを完成させること。この二つ」と語る。

 昨年5月には孫二人を連れて故郷和歌山を訪ねた。いとこたちがまだ健在で、2人を会わせ、そして墓参りもした。「お母さんの子孫はここから来てるんだって。(2人とも)とても喜んだね。日本にまた来たいって」。うれしそうだ。「日本人の移民してきた歴史を孫に教えるのは大事だね」。こうして日系人の移民史が受け継がれていく。でも年を取ると旅行はきついと笑う。

 7年前、タウンハウスに引っ越した。そこで知り合った引退した医師と意気投合し、現在は健康のために毎日片道7キロの道のりを自転車で往復している。冬以外はゴルフも週に1回こなす。「86歳だけど、まだ割に元気だから」。そう言って笑って、できる限り活動を続けていきたいと語った。

(取材 三島直美)

 

 

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