2017年6月8日 第23号

カナダの漁業界と、カナダ日系移民の歴史に大きな足跡を残してきた日系漁師。その一人、村尾敏夫さん(97 歳)は妻の喜美代さん(91 歳)と今年4月、元気に結婚70 周年を迎え、大きな家族でにぎやかに祝った。日系人強制収容から75 年の今、敏夫さんの戦争体験を振り返ると共に、日系コミュニティに貢献してきた人生をたどってみたい。

 

 

「これという病気もなしに来れたのはゲートボールと、30 年間、毎日飲んでいるニンジンとセロリとアップルのジュースのおかげかな」と語る村尾夫妻( 写真提供 ケルビン・ヒゴさん)

 

日系カナダ人差別の時代の中で

 村尾敏夫さんは、和歌山県三尾村(現・美浜町)出身の両親の元、1920年ブリティッシュ・コロンビア州リッチモンド市のスティーブストンで生を受けた。3歳の時、日本の教育を受けるために母と郷里へ。尋常小学校から尋常高等小学校へ進んだ後は、母を手伝い、海士としてアワビ捕りを。その後鉄工所に見習いとして入るも、室戸台風で工場に被害が及んで仕事を辞めざるを得なくなり、再びカナダに戻ったのは1936年、16歳の時だった。

 「しばらく父と同じ船で仕事をした後は、サケを運ぶ運搬船で仕事をやっていました。でもやっぱり魚が獲りたくて、周りの助けを借りて借金をして船を買いましてね」。

 危険の多い外洋での漁を始めるに当たり、ベテラン漁師が「繁忙期が終わった翌年から指導」と手助けを約束。では来年と思っていた矢先に太平洋戦争が勃発した。

 「1942年、日系人に強制移動命令が出された時、エバキュエーショングループというものが作られました。家族がバラバラに収容されないための交渉が目的でした。私は独身者でしたけど、そのグループに入れてもらって、一緒に移民館に押し入って座り込んでいました。結局その後、移民館の3階、普段は密航者を監禁していたらしい鉄格子のはまった部屋での生活になりましてね。ある時、面会者と収容者が日本語で話していたら、見張りの兵士に英語で話すことを強要されて、多分そこから言い争いになったんでしょう、暴動になりまして。皆で消防のホースを取り出したり、窓の外に便所紙垂らしたり。そうしたら兵士に催涙弾を撃ち込まれて、目の前が見えんようになりましたわ。また、隣の部屋に後から来た日本人が、こっちの様子を知るために鉄格子外して壁に穴を開けたら、見張りが天井に威嚇発砲しましてね。その銃弾は回収して、戦後に人権の不当な扱いの証拠として中立国に渡したと思います」。

 

極寒の地での収容所生活

 収容者はオンタリオ州北部ペタワワの軍基地での3 カ月のテント生活の後、アングラー収容所へ。冬場は兵士用の歩道を作るために雪原を踏みならし、暖房用の石炭運び、夜は当番でストーブの世話などを。マイナス50度にもなる土地で、施設の窓の内側には3センチほどの氷が張った。

 戦後、収容生活から解かれると、敏夫さんは多くの日系人と同様、日本行きを選んだ。

 「カナダを出る時の係官に、私は出生証明書から何か、もうどうでもいいという思いで置き去りにして出て行こうとしたら、係官が私を追いかけてきて『気持ちはわかるが、こうした書類は持っておいたほうがいい』と、私の書類を手渡してくれましたよ」。

 

戦後の日本の貧困を目の当たりに

 1946年6月末にバンクーバーを出港し、神奈川県浦賀に到着。大阪までの移動中、敗戦後の日本のすさまじい貧困と荒廃ぶりを目の当たりにした。故郷の三尾村で母と再会を果たした後、大阪の水産会社で職を得た。だが同僚が船で騒動を起こし、危険を感じて辞職。その後、三尾村近くの新浜で漁船に乗る仕事に就けたが、同年の南海地震と津波は敏夫さんの生活にも大きな影響を与えた。

 翌1947年カナダからの送還者たちで、三尾村に紀伊水産興業株式会社を設立。所有する船でアジやサバなどを獲り、三尾の漁港で水揚げした。しかし事業は採算が合わず、3年持たずに閉鎖。そのため敏夫さんは再び大阪に出て、進駐軍のオフィスで警備員とトラックの運転手を務めた。この47 年に喜美代さんと結婚。2年後には長女が誕生した。しかしフルタイムで働いても日々のやり繰りがやっと。収入向上の環境をカナダに求め始めるのには、それほど時間がかからなかった。

 「戦争中にカナダの日系人たちが経験したことを思うと、カナダへの帰国は気持ちとしてきついものがありましたけど、戦後の日本の貧困の中で6年ほど過ごすうちに、その気持ちの障壁を乗り越えられました」。

 

カナダ帰国・西海岸での漁生活

 1955年までに日本送還者の若いメンバーのほとんどが、村尾さんと同じ理由でカナダに戻ってきたという。

 「カナダを出た時に書類を係官に渡してもらえたおかげで帰ってこられました。1952年にスティーブストンに戻り、缶詰工場から船や網を借り、ポーチャー・アイランドの缶詰工場に魚を卸す仕事ができるようになりました」。

 その後、スキーナ川河口付近、フレイザー川やジョンストン海峡、バンクーバー島西岸のユークレットの沖などでサーモンを中心に漁を行った。1964年には38フィートの船を購入した。

 「これで5日半くらいかけてクイーンシャーロット島の方まで行って、キングサーモンの漁をしていました。そんなに危ない目には遭っていないですね。海がしけた時には、連れ立った日系の漁船をつないでしのいで。そんなふうにして1990年までの50年間、漁師生活を送りました」。

 

コミュニティを支えてきた村尾夫妻

 三女のジョイスさんは「夏休み、父が長い漁に行く前に連れていってくれたのは、センテニアルビーチへのピクニックと遊園地(PNE)。車がなかったので、みんなでバスに乗って行きました」と、家族の思い出を語る。三男三女の子供に恵まれた村尾さん夫妻は、精一杯の愛情を注ぎながら家族を支えてきた。

 支えたのは家族だけではない。BC州和歌山県人会、スティーブストン仏教会、長男レイさんが活躍するスティーブストン剣道クラブ、国風流詩吟の会、地域のイベント等々、どこでも率先して人の世話をしてきた。親の背中を見てきた子供たちは「両親は人としての模範」と語ることにためらいがない。子供6人は世帯を持ってからも、全員両親の家から5ブロック内に住んでおり、交替で両親の世話をしている。

 「私が長生きしているのはゲートボールのおかげです」。

 昨年も150日以上ゲートボールに足を運んだ。妻の喜美代さんも少し前まで一緒に楽しんできたという。そして敏夫さんは暗唱した長い詩吟を今でも朗々と詠じる。

 そんな元気な夫妻に長年親しんできた平野千代子さんは語る。「県人会でも踊りの会でも、おばさんは自分から積極的に世話役を買って出られていました。いつもおじさんにニコニコしながら付いてきて、おじさんを支えていて。そしておじさんは、あらゆる人のお世話をされてきた方。70周年のお祝いの時には、おじさんがおばさんに替え歌をプレゼントしていらっしゃいましたね」。

 喜美代さんに支えられながらコミュニティに大きな貢献をしてきた敏夫さんは、エリザベス女王の在位60周年のダイヤモンド・ジュビリー褒章(2012年)、岡田誠司元在バンクーバー日本国総領事からの日加友好親善への功労表彰(2014年)ほかを受賞している。

 「上手に書いてもらったら困りますよ。私はそんな価値のある人間と違いますから。日系漁師のリユニオンのプロジェクトのみんなの代わりに、ただ自分が年いってたから(褒章など)もろうただけで」。

 昨年末、敏夫さんはお世話になった周囲に恩返ししたいとの思いで結婚70年の会を開くことを考え、子供に相談したところ「すでに会の準備はできている」と返されたという。「『親の心子知らず』でなく、子の心、親知らずですな」と言って豪快に笑う。取材中、苦労話を聞き出そうとする記者に「大変なことには慣れてますから」と、別段何事もなかったように、敏夫さんは97年の人生を終始明るく語ってくれた。

(取材 平野 香利)

 

 

敏夫さんは70 歳まで漁に出続けた(写真提供 村尾敏夫さん)

 

 

1964年に購入した船には「コウキ」と名付けた。横綱・大鵬幸喜と末息子の日本語名からの命名だ(写真提供 村尾敏夫さん)

 

 

子供6人、孫13 人、ひ孫5人全員が集まり、結婚70 周年を祝った(写真提供 ケルビン・ヒゴさん)

 

 

自宅の桜の木の下で

 

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