2017年1月19日 第3号

家の向いに建つ長老教会。聞こえてくる賛美歌の歌声は幼い少女の心を捉えていた。それから70数年。声楽を指導し、46年間合唱団さくらシンガーズを率いてきたルース鈴木さんの心の中には いつも歌がある。2016年12月22日に傘寿を迎えた鈴木さんに、音楽と共に歩んだ人生を語ってもらい、つねに前向きな姿勢を支える信条を探った。

 

 

朗らかに取材に応じるルース鈴木さん

 

日本統治下の台湾に生まれて

  日本統治下の台湾で、教員だった父のもと、家庭でも日本語を使用していましてね。小学校も日本式の学校で。音楽を勉強していた父から、私はオルガンを習いました。

 戦後、父は将来英語が必要になると思い、繁華街で伝道する宣教師の英語の説教を度々聞きに行っていました。英語の後に中国語の通訳が入るんです。そんなところから私たち家族は教会に通うようになりました。私は当時12歳。オルガンが弾けたので、賛美歌の演奏を頼まれて、それがいい特訓になりました。

音楽部のある神学校に進学後、20歳での結婚を機に中退したが、声楽は個人的に教師から指導を受け続け、活躍の場は広がっていった。ラジオでの伝道のために多くの賛美歌を歌い、独唱のステージのほか、台湾テレビの交響楽団とのジョイントコンサートなど、数々の舞台をこなした。そして台湾放送の第1回中国芸術歌曲コンクールで第1位入賞を果たす。

 ずっと私は神様からいただいた自分という楽器をどれだけ磨くことができるだろうかという思いでいました。賛美歌は音域が狭いですので、もっと広い音域が歌えるオペラに気持ちが向いていきました。 しかし台湾にはオペラを演ずるところがないので外国に出ていけたらと。20代半ばから台湾の米軍基地に勤めたのは英語環境だったことが理由です。ピアノ演奏のおかげで、タイピングが割合上手にできて、職場では重宝されました。

ある巡り合わせで台北に訪問中のカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の音楽教授に歌を聞いてもらえる機会が訪れた。その人物は、鈴木さんの歌唱の実力を称え、海外へのチャレンジに背中を押した。

 海外なら学歴よりも実力を認めてくれるという話も聞きましてね。そのうち妹二人がカナダへ移住しましたので、私たち家族も移住を決めたのです。

 

オベラの舞台を目指して

夫のマイクさんも鈴木さんの海外での挑戦を応援。1967年、子供2人を連れ、家族でカナダに移住した。そして鈴木さんはバンクーバーに越してきてひと月でタイピングの仕事を獲得。3人目を出産後も、 仕事の傍ら、オペラにつながる道を模索した。

 かつて出会ったUCLAの音楽教授に「カナダに移住しました」と近況を伝える手紙を書きましてね。そうしましたら、彼がブリティッシュ・コロンビア大学(UBC)で教えた時の受講生だったソプラノ歌手の名前を教えてくださったのです。 その歌手の家族を通じてバンクーバーオペラの創業者であり指導者の人物に出会うことができました。

 指導者の方は私に「あなたはこの土地では知られていないから、まずコーラスに入ったらよい」とバンクーバーオペラのコーラス隊への入団を勧めました。

鈴木さんにとってコーラスへの参加は本意ではなかったが、提案を素直に受け入れ入団。その傍ら、声楽の先生について個人レッスンを受け、毎晩仕事の後には自宅で3時間練習をして、オペラ独唱のチャンスを狙った。それから約2年で、ようやくオペラ『アイーダ』の祭司長の役で独唱の機会を得ることができた。声楽教師からの口添えを得てのことだった。

 役をもらうのも、こういった人のつながりで動く世界なのだと思いましたね。ただ話の設定上、祭司長が歌うのは舞台裏でした。

 

天の采配

しかしスポットライトを浴びる機会は思わぬところから訪れた。

 演出家の方から、「次回公演の『トゥーランドット』のリュー役の歌を歌って聴かせてほしい」と言われたので、私の歌を聴いてもらいました。しかし、その役はすでにニューヨークの歌手と契約が済んでいるとわかりました。ですが「何かのために」と私はリュー役の歌、すべての楽譜を入手して独学で練習を始めたのです。 公演前には立ち回り稽古の見学を許可してもらい、会社の休みを取ってずっと見ていました。そうしたらオーケストラとの合わせ稽古という日に、リュー役の女性が気分が悪くなり、稽古ができなくなったのです。演出家は私に代役を依頼し、「歌は歌わなくていいから」と指示しましたが、私は全曲歌えたのですべて歌いました。結局、その歌手の方は水疱瘡になっていたことがわかり、医師から仕事にストップがかかりました。そのため公演前日、大急ぎで衣装を私に合わせて直していただき、 当日に間に合わせたのです。

こうしてバンクーバーオペラの表舞台に立つことができた鈴木さんに、翌年、再びチャンスが訪れる。 『トゥーランドット』のエドモントン公演の際に、同じくリュー役の歌手が盲腸になり、出演不能となったのだ。天の采配を受け、鈴木さんはステージに上がり、オーケストラの演奏のもと、精一杯歌い、演じた。

 こんなことがありましたから、私はその後、指導する立場になってから生徒に言いましたね。「適切な時に適切な機会が与えられる。準備をしていたら、チャンスが与えられる」と。あの時、私にリュー役の歌を練習しておきなさいという勘が働いたんですね。それで準備をしたから機会が与えられました。こうしたオペラの舞台の経験は私の音楽への視野を大きく広げてくれました。

バンクーバー島でのオペラフェスティバルでは『蝶々夫人』の蝶々夫人役を任され、3時間近くにわたる舞台を演じきった。こうして海外のステージでオペラを歌う夢が叶った後、ニューウエストミンスター市所在のダグラスカレッジから要請があり、1979年から23年間声楽の講師として個人指導に当たった。

  生徒には自由を与えることですね。どの生徒がすることも間違いとは言えません。音楽は芸術ですから、メジャーにかけられません。本人の持っている可能性は計り知れませんから、その人が持っているものを受け入れてあげないと。ストップをかけることなく、私の考えを伝えて、よくなるところを導いていくようにしています。

 私は発声指導を中心に指導していました。声を出すのには焦点が大事なんですね。カメラのように焦点があるんです。焦点を探し、焦点を通していくとのびやかに通るようになります。

 

さくらシンガーズの誕生

1970年にはJCCAの呼びかけで、日本語の歌を歌う合唱グループを結成。73年には「さくらシンガーズ」 と名称が付いた。

 皆さんにとって懐かしい曲から始めましたが、やはりわざわざ練習に足を運んでもらうからには何かを学んでもらいたいと思いました。それでコンサートには合唱組曲を歌うようにしました。

46年間の活動では定期コンサートのほか、カムループス、トロント、ロサンゼルスなどへの遠征も経験。 サクラ・デイズ・ジャパン・フェア、パウエル祭など、日系コミュニティのイベントへは参加の義務があると捉え、積極的に取り組んだ。こうした継続的な活動が認知され、さくらシンガーズがBC州非営利団体と認められたのは2006年のことだ。

 その2年後くらいのコンサートの時でしたね。ああ、やっと私の考えているさくらシンガーズの声が出せるようになったと思ったのは。みなさん、磨いていけばできるんです。

合唱団や個人の指導、自身の歌唱に関して、そして人生全般についてもこれまでスランプはなかったという。

 うまくいかなければ努力が足りなかったのだと思います。理想の音が出せるように、さあ、またがんばりましょうと。神様のお導きで神様の意志によって歩いていく。それだけですね。

 

力ある限り前へ

苦労を苦労と思わず、おおらかにすべてを受け止める一貫した姿勢が、周囲の人々へ安心感を与え、信頼を集めてきたのだろう。終始ハリのある声で語り、おおらかに笑う鈴木さんだが、 数年前にぜんそくになって声が出にくくなり、加齢による発声器官の変化も感じている。しかし物事への姿勢は変わらない。  

 どうやったらこの状態でもっと声が出せるようになるか、補っていくかを研究しています。もう指導をリタイヤしたらという考えもありますが、いただいたこの体を元気ある限り使っていきたいという思いです。

素晴らしい原石を磨き続けることを、人にも、自分にも。それは鈴木さんにとって生きることと同義であるように記者の目には映った。

(取材 平野香利)

 

 

バンクーバーオペラ「トゥーランドット」でトゥーランドット姫の新たな求婚者となろうとするカラフを思いとどまらせようと説得する召使いのリューを演じて(写真提供 ルース鈴木さん)

 

 

ワーグナー作のオペラ「ワルキューレ」にワルキューレ役の一人として出演(写真提供 ルース鈴木さん)

 

 

さくらシンガーズの皆さん。Sakura Days Japan Fair 2016 (写真提供 さくらシンガーズ)

 

読者の皆様へ

これまでバンクーバー新報をご愛読いただき、誠にありがとうございました。新聞発行は2020年4月をもちまして終了致しました。