父親をはじめて意識したのは、太平洋戦争で日本が敗戦国となった翌年。日支事変に続いて二度目の出征をして戦地から帰ってきた父が、たまたま私が留守番をしていた家の廊下にドサッと背中の荷物を投げだして、「負けちゃったァ…」と云って笑った時だった。

私は小学校の低学年。鼻の下にヒゲを生やした父親を見て、はじめての人を見るような気がしたものの、そう云えば二度目の戦争に狩り出される日の父が町内の一角にしつらえた壇上で「必ずや勝って…」などと大きな声で挨拶していたことを思い出した。
幼い子供が戦いの話を親にせがむのは、いつの時代も同じで父に戦地の様子など根掘り葉掘り訊いたりした。

日支事変の時の新聞に、父が中国のある街のガレキにもたれて銃を構える写真が載ってその古くなった切り抜きを何度も見せられた。
本人の言によれば射撃は中隊一の腕前だったそうで、それは後の市民体育祭の射撃部門の競技で父が一等になり、辛うじて面子が保たれた。

中国の戦線では、タノクロ(田圃の意)の中を這いつくばっての激戦の中で多くの敵をなぎ倒した話などもあって拳をにぎりしめて話をきく。父は陸軍の軍曹だった。

第二次大戦の話になると急にトーンが落ちた。負け戦もさることながら、出征先は内地の信州だったらしい。
信州のうまい食べものの話が多くなり、父親の勇ましい戦いの話などを期待する私にとっては、いさゝか不満だった。

それから十数年を経て私は社会に出る。酒好きで詩吟を詠う位しか趣味のなかった父は、コタツが好きで一杯きこしめしてはコタツに半分体を入れて寝そべっていることが多かった。
時々「世の中に寝るより楽はなかりけり。浮世の馬鹿は起きてはたらく…」などと呟いているのを見ると、これでも旧日本陸軍の兵士だったのだろうかと疑う程で、こりゃたいした親父じゃないな…と思ったりした。

第二次大戦が終って日本が次第に豊かになり、国民の間に厭戦気分が益々横溢してくる。闘いそのものとは直接向き合わなかったとは云え、幼かった我々も少なからず戦争のとばっちりは受けている。平和を望む人間の思いはまことに自然な流れだった。

そんな世の中になってくると我が親父のような戦争の直接の体験者は影が薄くなる。

或る時、コタツでめっきり弱くなった酒を飲んでいる父に成人した私が改めて日支事変での話を訊く機会があった。しかし、どうも昔きいた話と違うし話に勢いが無い。
第二次大戦から帰った時は負けたとは云え、うっかり口応えなどできない勢いがあったのに…と思った。

話を訊いてゆく内に日支事変の際、新聞に載った敵兵を狙撃する父の写真は新聞記者の今で云うヤラセだったことを父が白状した。

そう云えば戦場にしてはあまりにも静かな情景だった。
ずい分敵兵を照準器にとらえて塹壕の中から撃ちまくった話も作り話でとても危なくて頭など出せず銃だけかゝげて撃ったと云う。
次々と音をたてて崩れるように父の武勇伝が私の心の中から消えていった。

父は私の郷里の町はづれにあった小高い山の上にある神社の三男として生まれた。
木曽の御嶽神社の分霊が祀られる神社で父の長兄は神主だった。父も神主ではないものの、その資格を持つ人だった。俺にはとても人は撃てなかったんだヨ…御嶽山に対して顔向けができないしなあ…。もう、それ以上は訊かないことにした。そして戦場での話をねだる私に父はさぞ辛い思いをしたのだろうと思った。父親としての面子と一人たりとも敵兵を狙い撃ちできなかった不甲斐ない自分との心の葛藤があったと思う。
そんな告白をしたあと、少しばかりの酒を飲んで、コタツでうたゝ寝をしてしまった父を哀れに思った。長い間話していた偽りの戦の話を、もうしないで済む心の休らぎがあった筈である。

父が敗戦から家に帰り、しばらくして竿をかついで郊外に釣りに行った私が日が暮れた野道に迷って家に帰れなくなったことがあった。泣きながら歩く畔道の先に自転車に乗って私を捜しに来てくれた父の影があった。
私は夢中で父の腰にしがみついた。少し前の父だったらこっぴどく怒鳴られただろうに何故か自転車の荷台に座った私を父は一言も叱らなかった。父は何を考えていたのだろう。
歳をとった父は少しづつ丸くなった。今思えば酒でも飲んで、なぜもっと男同志の話をしなかったのだろうと思う。

 

2012年6月21日号(#25)にて掲載

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