六〇年代のはじめ頃。私が制作部に席をおいた広告会社は東銀座に本社があった。
野球部があって当時、強豪がひしめく東京中央区の野球大会で三回戦まで勝ち進んだのが自慢だった。
英文字の会社名をそのまゝチーム名にしたので、当時実際にあったプロ野球の或る球団と全く同じ名前になり、ユニフォームをみると、まるで二軍のチームのようである。

しかしチーム名の割りにはメンバーに大きなバラつきがあり、選手の背丈も凸凹。
制作部の課長だったO氏は体格も小柄で決して運動神経にめぐまれていなかったもののライトを守った。
案の定、練習試合で外野に飛んだ当たりそこねのボールをとりそこなって、運わるくそこにあった犬の糞など掴んでしまって試合が中断する。

ある時の試合で社長が「どうしても…」とピンチヒッターとして打席に立った。
幸い打ったボールが外野にとんで、まともに一塁に向かって走ればヒットとなったのに社長は三塁に向かって走りアウトになった。

そんな野球チームだったが勤務が終った夏の夕暮れ会社近くの公園などで練習していると、ユニフォームの名前を見た野球好きの少年やヒマをもて余している近所のお爺さんが集まってくる。
中には同名のプロ球団の二軍選手と勘ちがいして、サインをねだる子供もいる。
時々「ちょっとチイセエなあ…」等と云う子供の声もきこえてきたが、知らん顔をしてキャッチボールを続けた。

ある時、会社のクライアントでもある三共製薬から試合の挑戦を受けた。
当時、この薬業界の老舗でもある三共製薬には、確かノンプロと称される女子野球部があって名声を馳せていたがその女子野球チームと対戦することになった。
女子野球としては並の強さではないことは承知していたものの相手は女…と云う侮りが無かったといえば嘘になる。

球場は三共大崎工場グラウンドで内野の観覧席もある立派なものだった。
試合の始まる前から相手側のスタンドには、この女子チームのファンと思える三十人程の観戦者がいる。
試合前の両チーム勢ぞろいの挨拶があり、その頃から私の心に動揺がはじまった。
これは大変なことになった…と云う一種の怯えと、間違っても女子には負けられないと云う意地が、からんだ複雑な心理である。

それもその筈である。対戦する女子選手を見ると、いづれも極めて若い。その体格は男に勝るとも劣らず、はち切れんばかりの健康優良女子の見本のよう。三共製薬の誇るこの女子野球チームの実力は戦う前から迫力を感じた。

私はキャッチャーだった。我がチームの投手、同じ制作部のM君が第一球を投げる前私はマウンドに走り寄った。
「エライことになったな…」
彼の返事は「しようがネエヨ誰がこんな試合受けたんだ」
打ち合わせはそれだけだが人が見れば投手と捕手がサインの打ち合わせをしているように見えないでもない。
M君の球種は直球とカーブの二つしかなかった。

さて先攻の三共チームの攻撃、一回表がなかなか終らないのだ。すさまじい打力だった。どこへミットを構えても殆どバットに当てられてしまう。感心している場合ではないのに、あまりにも打球のスピードが速い。我が方の外野手がいつも捕りそこねたボールを追っかけている。

案の定、内野席に陣どった敵チームのファンから痛烈なヤジが飛びはじめた。
「シッカリしろ男だろう!!」
屈辱に耐えながら、それでもようやく敵の一回の攻撃が終わったものの既に片手で数えられない程の点が入った。
変って我がチームの攻撃となった。しかし相手チームの女子エースの球が速すぎて、とてもバットに当たらない。三振の連続。絶望的だった。

我が方の監督の指示は「とにかく負けるな!」だけで具体的な作戦はない。
本塁を守る私に遊撃手である営業Y君の声がうるさい。
「キャッチャーもう少し考えろ、考えろ!!」真っ白になった頭でいくら考えてもどうにもならない。パワフルな敵の得点は止めようがなかった。

もうイニングは忘れたが重量級のランナーが三塁からホームにすべり込んできた。
体当りを喰った私は、はじき飛ばされて、ボールがどこに行ったか見つからなかった。

スコアは28対1。思えば日紡貝塚女子バレーボールチームが東洋の魔女と呼ばれヨーロッパ遠征で華やかな成績をあげて喝采をあびた頃だ。
その試合は屈辱的な大敗となり、帰途居酒屋で女性の台頭を噛みしめながら飲んだ生ビールの苦かったこと。

 

2012年4月5日号(#14)にて掲載

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