カナダに移り住んでからのお正月はもう二十数回迎えたが、昔日本で感じたような新年を迎える清々しさは残念ながら今迄味わったことはない。
せめて一月三日までは、のんびりしたいと思っても世の中が二日から動き出してしまうから落ちつかなくなって、酒など飲んではいられない。
国の習慣がちがうから仕方がないと云えばそれまでだけれど三日頃まで何ともエンジンがかからずノソノソしている。

 

日本で過ごしたお正月も、年齢を経るごとに感慨がうすくなったが何と云っても思い出に深くきざまれている楽しかった新年は幼なかった頃のものである。
私が生まれ育ったのは東京から電車で四十分程の城下町で江戸の面影を残す旧い町だった。
正月になると毎年のように市内中心部にある大きな寺の境内に俄か作りのサーカスのテントが張られて、沢山の見せ物小屋も並んだ。

当時、日本の有名なサーカス団がいくつかあって全部は思い出せないもののシバタサーカス、コグレサーカス等の懐かしい名前を憶えている。

 

今のサーカスは、ロシアのボリショイサーカスに代表されるように近代的な技術をも駆使した立派なショウ・イベントだけれど、私が少年期に胸おどらせて楽しみにしていた当時のサーカスは、巡業色の強い見せ物小屋。幾日かすると小屋は畳まれ忽然と姿を消す。

どこかほのかな哀愁さえも滞ようテント張りのサーカス小屋で入り口のあたりに象がつながれていて体を揺らしていた。
メインのショウはやっぱり空中ブランコで手に汗をする。

敗戦後のたいした娯楽もない時代だから寺の境内は大賑わいで正月のお年玉を握りしめた子供達も何度も足を運んで短い正月を楽しむ。
サーカス小屋は入場料も子供のフトコロに響くので一度しか見られず、あとは安い見せ物小屋を片っぱしから見て歩いた。
ボールを腹に当てると赤鬼がウォーッとわめいて金棒を振り上げたり、鉄砲の筒先にコルクの弾をつめて射つ射的もあった。
中にはイイ加減でインチキな見せ物があった。
「可哀そうなのは、この子でござい親は五つで子は十三…涙なくして語られぬこの悲劇…」などと云う呼び込みの声にだまされて小屋に入って見ると、テーブルの上にスポットライトをあびて、ザルに入った大きな里芋が五つ転がっている。

壁には芋畑の写真などが貼ってあって何もない。
「子供はどこにいるの?」
テーブルの脇に腕組みして立っているオヤジに聴くと「誰も人間とは云ってない。親芋の廻りに仔芋が十三もついているだろう。あゝかわいそうに良くみてごらん!」
別にかわいそうでもない。
見れば赤ン坊の頭程大きな里芋五つの廻りにコブのように仔芋がついていて数えれば十三ある。
「お金返してヨ、オジサン!」と云っても相手にされず、なけなしの小遣いをまき上げられる。アメ玉一個くれた。

親友の玉子屋のヤアチャンもだまされた。六尺の大イタチがいると云う僅か一坪のテント小屋に入ると何もなくて何もイネエじゃねえか!?と口をとがらせて文句を云えば立っている用心棒みたいな奴が「お前のウシロだ、危ない!」
あわててウシロを見ると六尺程の板が立てかけてあって赤い血のようなものがついている。「今あぶないって云ったじゃネエカ!」と抗議すれば「板が倒れたら危ない…」ヤアチャンは貴重な小遣いを五円とられた。確かに六尺の大板血だった。アメ玉一個。


♪旅のツバクロ
淋しじゃないか
俺も淋しいサーカス暮らし
トンボ返りで…
ことしも暮れる……


サーカスを唄った日本の流行歌はいくつかあるが、どこかに一抹のわびしさが滞よう。
見せものとして繋がれている動物たちはともかく、サーカス団の人達は夜になってどこに寝るのだろう…。テント小屋の脇に停めてあるあの派手にサーカス団の名前が書かれたバスの中で寝るんだろうか…と子供心に考えた。

親に聞いたら「知らないヨそんなこと…」と云う返事しか返ってこなかった。
遊び疲れて西の空が茜色に染まる夕暮れになって家に帰った冬の日、母親がこんな遅くまで遊んでるとサーカスに連れてかれちゃうヨ…と云った。
あの楽しいサーカスの人達が本当に人を攫っていったりするんだろうか…と思った。
ある時母親に「早く大人になりたい…」と云ったら母親が真顔で「なんで?」と云う。明らかに狼狽した表情だったが「大人になれば一人で遠くへ行けるから…」と応え母親はホッとしたらしい。本当に遠くへきてしまった。

 

2011年12月8日号(#50)にて掲載

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