邦人32名を含む58名の死者を出した100年前の大惨事の原因を一つ一つ紐解くように、当時の写真や資料を用いて聴衆に説明した会は、先人たちがどのようにしてカナダに渡り、カナダ社会に溶け込んでいったか、なぜ事故は起きてしまったのか、その後のカナダ政府、社会の対応・変化、藤村氏を中心とした遺族探索活動など過去から現代にいたるまでのおよそ90分間の密度の濃い報告会となった。
・・・ロジャーズ・パスはBC州レベルストーク市の北東約70kmに位置し、グレーシャー国立公園の中にある峠・・・
なぜ、多くの日本労働者が被害にあったのか?
1853年、ペリーの黒船来航以来、開国を果たした日本。多くの日本人が新たな働き口を見つけに、ハワイを皮切りに多くの日本人が海外へと移住した。海外へと労働機会を見出す多くの人々は、日本での生活に困窮し、海外で一旗揚げようという意志をもっていた。犠牲者となった32人の多くもそういった意志を持つ人々で、事実、日露戦争における消耗戦を経て、一層厳しさを増した大日本帝国の税制から逃れるようにカナダへ渡ったというのが、彼らの移住の一義となっている。そうした中で、カナダ太平洋鉄道(CPR)は賃金の安いアジア人労働者を求め、1906年12月、後藤佐織によって設立された日加用達株式会社と1907年、横浜の東京移民合資会社から合わせて1千人契約鉄道作業員と5百人の採掘作業員が3年間の労働契約書とともに日本から派遣された。低賃金かつ不平不満を言わず黙々と働く日本人は重用され、当時、ロジャーズ・パスで第一波の雪崩で埋もれた線路の除雪作業に携わっていた111人のうち、68人が日本人労働者だったと当時のバンクーバー発刊の日本語新聞「大陸日報」では掲載されていた。そして、第二波の多雪崩に巻き込まれ、58人の死者が出てしまった。そのうち、32名が日本人だった。日本人労働者の勤勉さが、皮肉なことに多くの日本人犠牲者を生む発端となってしまった。
その後のカナダ政府の対応・変化
事故後、58名の死者を弔う儀式がレベルストーク市の教会で行われたが、日本人労働者の遺骸はそこにはなかった。その亡骸はバンクーバーに運ばれ、その遺族や県人会、僧侶によって仏葬された。大惨事の情報は事故後1カ月以上も継続されて毎日のように「大陸日報」によって日系社会に伝えられた。
ロジャーズ・パス雪崩事故から100年目を控えた2009年1月、100回忌合同慰霊祭に向けてカナダ人による実行委員会が組織された。委員会は2010年3月4日の合同慰霊祭に向けて、日本人遺族の詳細を明かすためにボランティアを探していた。「雪崩を携わる者として、この機会はまさに運命だ」と思った藤村氏はボランティア活動に参加した。レベルストーク市で、カナダ雪崩協会のプロフェッショナルメンバーとして活動している藤村氏の参画が、運命の歯車が重なるかのように相成った。「カナダ人が日本人のために一生懸命やってくれていることが心に触れた」と藤村氏が語るように、レベルストーク市内の小・中・高等学校、シニア・センター、雪崩コントロール軍隊、カナダ雪崩協会、パークス・カナダ、レベルストークスキーパトロール、そしてオカナガン大学などの地元民は一世紀前に犠牲となった多くの命を弔う心の鶴が折られ、そしてユーコン州、アルバーター州、トロント市、サンシャイン・コースト、バンクーバー日本語学校、そして日本からも集められた総数は1万3千羽に及んだ。2010年3月4日にレベルストーク市で開かれた100回忌合同慰霊祭には鹿児島県出身の子孫を含む、日加両国合わせて800人もの人々が参列した。またカナダでは二度とこのような悲劇を起こさないために、気象予報士とは別に、雪崩予報士というプロの雪崩専門家が雪崩を予想し、事故を未然に防ぐためカナダ全国で取り組みが行われている。
今後の取り組みについて
「まだまだ日本の一般向けの雪崩対策、教育や予報は遅れている」と藤村氏はそう語る。日本にはまだ、雪崩専門の予報士はおらず、気象予報士が兼任している。「雪崩対策先進国のカナダでの知識をいつか日本に持って帰って、雪崩対策を広めていきたい」と藤村氏は語った。また「雪山で多くの命に触れて来た者の使命」として、これからもロジャーズ・パス雪崩事故日本人犠牲者の遺族・子孫を探索活動も並行させていく。関連の情報、あるいは日本人犠牲者や当時の生存者(西山 喬、酒井 平吉、濱野 菊太郎)に心当たりのある方は、下記、藤村氏まで連絡されたい。
藤村知明
250-814-9412
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18歳にしてカナダに渡った藤村氏。神戸大震災を故郷・大阪で間近に見た少年は、十数年の時を経て、大自然のなか命の温もりを守り続けている。
(取材・幸森理志)