2016年8月18日 第34号
最近NHKスペシャルで、アマゾンの奥深いところ、正確にはブラジルの国境を越えてペルー側までテリトリー(生活圏)としているアマゾンの原住民の貴重な映像を見る機会があった。
文明社会から閉ざされた社会に住むアマゾンの原住民は、縄文時代の日本人のように、男達は肩まで届くような長い髪をしていて、裸で生活をしている。わずかに紐のようなものを腰に巻きつけているだけである。黒く陽に焼けた身体は筋肉質で、皮下脂肪のダブついた脂肪太りの者はその集団の中には一人もいないように見えた。
縄文人の骨から想像される頑強な体格も、また、現在のアマゾンの原住民も同じように見えてくるのである。この原住民マシュコピーロの意味は凶暴で野蛮な人間ということらしい。と言うことは、大量虐殺ができる機関銃とか原爆を持つ我々現代人のほうが野蛮なのかもしれない。
怖さを知らないマシュコピーロ(原住民)が竹やりを持ち、文明人のボートに近づいてくる。文明人が用意したバナナを取りにくるのであるが、カメラマンの服に興味を持ち欲しいという表現をする。カメラマンはどうしてよいか解らず、おびえていたように見えるが、(場合によってではあるが)銃で脅すこともできないのである。
大げさに言えば、大砲で威嚇する黒船、あれが現代の力の外交ならば、それはそれで野蛮なことでなかろうかと思ったりするのである。
日本史の中で司馬さんは、野蛮と思われた木曽義仲について書いておられる。
「木曽義仲が信濃や北陸の荒武者をひきつれて都へ攻めのぼり、天下を制する。そこで天子以下公家達と接触がはじまるのだが、いちいち意志が疎通しない。義仲は怒る。ついにヒステリー状態になる。我々後世の者はこの義仲に同情し、公家どもはハラは悪いと思うのだが、しかしよく考えてみると、右のような理由がある。義仲は、イエスかノーかが明確な世界に住んでいる。めしを食うのか食わないのか、栄誉がほしいのかほしくないのか、頼朝につくのか義仲につくのか、それを明快にしてほしい。しかし京の公家は、保身だけでなく、固有の言語習慣としてそういう明快さを持っていないのである。明快でないことが礼だと思い、明快なものを野蛮文化だと思い、えびすだと思っている連中なのである。だから、義仲から見ればたまらぬほど煮え切らぬ連中であり、後世からみればハラの底のわからぬ老獪な連中のように思える」
と言うことは、北米に住む日系人はイエスとノーをハッキリ言わねばならない文化のなかにあり、それは、日本からすれば、野蛮な世界かもしれない。野蛮なものはどちらなのだろう?スープやうどんを音をたてて食べる日本人は西洋ではマナーがないと思われ、野蛮人のごとく思われることもある。野蛮とは習慣とか、文化の違いかとも思える。
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