2019年6月27日 第26号
これって下宿屋ではないけれど、契約切れで空いたコンドの賃貸広告を出した。まあ、家賃が安く、コンドの場所が便利なため、毎日、色々な人がコンドを見に来る。この老婆、身体がだんだん不自由になり出来ないことが多い。それでも、最近の楽しみは「人間」を見ることだ。出会う人、一人一人を丁寧に見て感じてみる。実に面白い。エレベーターで出会うニッコリ、ブッスリ、無視、フレンドリー、沢山の荷物をもっている老婆にさっと手を貸す、エレベーターのドアを押さえてくれる人、荷物を運び出してくれる人。皆、優しいのだ。1度に3軒のコンドが空いたので、レンタル・エージェントに頼んだが、何だか怪しげで信用できず、結局、自分でテナント探しになった。難聴だし、アイフォーンの使い方もおぼつかない、そして、賃貸料の支払いも「E-transfer」 (?) それなぁに? なんなの知らないよぅ。でもね、生きていくには多くの人に助けてもらいながら、ITの事も少しずつ覚え、なんとかやっていかねばならない。IT、本当に不思議な世の中になったものだ。 「勇気がないと問題は困った事になり、勇気があると問題は楽しみになる。」
ところで、先回、「老婆のひとりごと」に音痴の話を書いたら、半世紀経って再会できた鎌倉の従弟からコメントが来た。彼も音痴だそうだ。でもその彼の姉の一人は音大を卒業、音楽での生活だから、どうも遺伝ではないだろうと彼は言う。(彼は昔ある有名会社の要職についていた。それでカラオケに行くのかねぇ)兎に角、行けばいつも「星影のワルツ」を一曲歌っていたそうだ。
大昔、老婆(元少女)が、ある事情でカンボジアのタイとの国境近くにある「バッタンボン」というオレンジのとれる村へ行った。到着した日、偶然だが村中の人が集まる夕食会に招待された。1950年代の終わり頃、日本は自由渡航でなく、皮製の立派な菊の御紋章入りパスポートをもっての旅だった。兎に角、夕食会で大勢の人が、私と同行の女子大生と2人に日本の歌を歌えと言うのだ。どうしても断れず中央に立って2人で「さくらさくら」を歌い始めた。途中で音程が狂い、声も続かない。なんだか可笑しくて私は笑い出した。すると観客も皆笑い出した。会場全体が音痴の歌に大笑いだったのだ。それは音痴がもたらした幸せな瞬間だった。
アンコールワットのある「シムリップ」から1日1本だけのバスに乗って象や水牛が農耕する村々を何時間も走った思い出。大使館の偉い方だったのでしょう、プノンペン到着と同時に「おはぎと美味しい日本茶を用意してお待ちしています」というカードを受け取り、送られてきた車で大使館へ行った。貧しい国カンボジアの家庭にホームステイするのだから、トイレの紙一枚、お醤油の1滴も無駄にしてはいけないと優しく言われた。
80年生きると色々な体験をする。「第2次世界大戦」を東京と疎開先の伊東(温泉)で、そして、成長し就職して行った香港では毛沢東の「文化大革命」毎週1回、3時間の給水で生きた事、やっと移民して行ったカナダのケベックでは「フレンチ・リボルーション」どれも厳しい体験だった。それでも立派に乗り越え、その上、自分の住む場所で3回オリンピックを体験できたのは嬉しかった。東京オリンピック、モントリオールオリンピック、そして、バンクーバーオリンピック。
「音楽の会」から英国ロイヤル・オペラの「ファウスト」の上映案内を受け、一人VIFFへ観に行った。入口で18ドルを支払い中へ入る。そこで観た舞台は16世紀頃のドイツ。老哲学者ファウスト博士は学問に明け暮れてきたが、ある日、自分の人生を振り返り後悔する。自殺しようとするところで悪魔と出会い、悪魔と取り引きし若返らせてもらう。
この老婆、若返らせてもらいたいと全く思わないが、身体の老化は辛い。でもね、振り返ると多くの素晴らしい学びと経験を得られたこの人生、天に感謝の一言だ。 「あんたぁ、元気? 悪いところない?」「うーん元気よ、悪いところォ、そうねぇ、頭だけ」ははっは!
許 澄子