2019年11月28日 第48号
先日、仕事の合間に、とある病院のカフェテリアで休憩をしていました。人のまばらなカフェテリアは、昼食にはまだ早い時間帯です。病院のスタッフや見舞い客に混じって、病院のガウンを着た入院患者も思い思いに寛いでいます。ふと、少し離れた席に着いた母娘の会話が耳に入ってきました。席に着く前から、娘のほうは少々ご機嫌斜めで、折角、母親の見舞いに来ているはずなのに、その言葉には「棘」が感じられます。
忙しい中、スケジュールを調整してわざわざ会いに来たこと、なぜ出される食事を摂らないのか、朝食の代わりにわざわざ買った物を食べないのかと、半ば一方的に話しています。母親が答えようとしても、話し終わらないうちに、次の質問が待っています。その口調や身振りだけから判断すると、どうしても「いびっている」ようにしか見えません。母親のほうは私に背を向けているため、その表情はわかりませんが、弱々しいながらも弁解しようとしています。娘が買った物を食べる食べないの短い口論の後、娘は、母親の前に置いたトレーを持ち、何と、手付かずの食べ物を全てゴミ箱にドサッと捨ててしまいました。そして、そのまま母親の車椅子を押して、カフェテリアから出て行ったのです。
母親が入院している理由や、母娘のそれまでの人間関係は知る由もありません。たまたま虫の居所が悪かったのか、いつもそのように接するのか、母娘の日頃のやり取りも私にはわかりません。しかし、娘も母親もストレスを抱えていたのは確かです。その光景が、私も昔、母に同じような態度で接したことがあるはずだということを振り返らせてくれました。
母の症状についてはっきりとした診断が出る前に、十中八九、認知症だろうという確信があり、心の準備は充分できていました。認知症のことをよく知れば知るほど、介護がどのくらい続くか全く先が見えないことが、不安の種にはなりましたが、認知症のはずはないと否定したい気持ちにはなりませんでした。認知症と診断されてから、要介護認定の申請やケアマネージャーの決定、デイサービス施設の選択など、一時帰国中の短期間に済ませなくてはならない状況を経て、何とかいろいろなサービスが利用できるようになりました。介護のお膳立てが整ったことにより、同居する家族がなぜ変化に気付かなかったのかという疑問は残ったものの、ひとまず安心して日々の介護を託すことができました。
母は整理整頓がどんどんできなくなり、大切な書類や物を置いた場所が思い出せず、それを一緒に探す過程で、あまりの散らかり加減に呆れ、つい小言を言ってしまうこともありました。入浴をしたがらなくなり、ひとりで入るのも危険なので、背中を流すと言えば入ってくれ、着替えの服を一緒に選べば、同じ服を繰り返し着ようとすることもなくなりました。その度に理詰めで諭しても、かえって頑なになるだけなので、代替案を提示することで、その場をしのぐことができることを学びました。しかし、いくら足掻いても、母が認知症になった事実は変わりません。それなら、介護に関する意見の相違には目をつぶり、全てを受け入れ、協力していくしかないと割り切った時点で、自分の役割がはっきり見えてきた気がします。
会いに行く度に、母の認知症は明らかに進行し、私にできるのは、母ができるだけ快適に過ごせるようにすることしかありません。海外在住では、危篤の知らせを受けてもすぐには飛んで帰れないことも、きっと死に目には会えないこともわかっていました。また、自分も親になって、本当の親の有り難みが理解できるようになりました。だからこそ、どんな形でも、一緒にいられる時間を大切にしようと思うことができ、自分の心の葛藤を無闇に母にぶつけずにすんだのだと思います。
改めて、母に感謝。
ガーリック康子 プロフィール
本職はフリーランスの翻訳/通訳者。校正者、ライター、日英チューターとしても活動。通訳は、主に医療および司法通訳。昨年より、認知症の正しい知識の普及・啓発活動を始める。認知症サポーター認定(日本) BC州アルツハイマー協会 サポートグループ・ファシリテーター認定