イラスト共に片桐 貞夫
バンクーバーじゃ、高級フッカー(コール・ガール)だそうですよ。こんなタッパーランドになんかに戻って来るわけないですよ」
根拠はどこにもないがパターソンは巷の風聞を言った。
父親のジェイコブは、若い鉄道員を家に連れてきては娘たちをあてがって金を取った。ジェイコブは、足りない酒代を娘たちの肉体で支払ったのだ。思いに思いつめたキャサリンが、父親に斧を振るったということは十分考えられることであった。
二人の警察官は海の見える丘に戻ってきた。
夕靄に暮れてデッドマン岬は見えないが、ニキシクの大潮が迫っている。ドードーとこだまする海鳴りは、あの海に呑み込まれた人々の死を選ばなければならなかった慟哭のように聞こえないこともなかった。
五.
「兄ちゃん」
比嘉ジョージがつぶいた。
夕闇の訪れと共にタッパー湾の水が黒くなり、白く渦巻いてニキシクのくびれに殺到する。潮の響きに、キューンキューンという特有な響きが混じり出していた。
父と兄に会いたかった。見栄も誇りもかなぐりすて、二人のそばに行きたい。いくら気張ってもジョージは十八歳でしかないのだ。
ジョージは、ひとり懐かしく父の言葉を思い出した。
『いいか栄二』
父と兄だけはジョージを日本名で呼ぶ。
『隙を見せちゃならないんだ。挑もうとする相手に隙を見せるから闘いが起こるんだ。闘いを回避する力を築き上げるのが空手の究極なんだよ』
ジョージの父親は、空手の技を闘争に使ってはならないと言った。空手とは、己の心身を鍛えて自我に勝ち、人を許す為のものであると教えたのだ。
ジョージの目尻が歪んだ。
…俺にはわからねえ。俺は奴等を許すことができなかった…
物心つく前から兄と共に空手の練習をしてきたジョージは、心身二局のバランスができ上がる前に技の大局をつかんでしまった。ジョージは、むしろ苦しんだ。兄より七歳年下のジョージは、技だけ知って空手の真義が解らない。肉体の強靱さが増すと日常の言動に出てしまう。優越する白人パワーに、ひとり対抗してきたのだった。
眼下のラピッドの水面を靄がおおっている。カモメの群がギャーギャーと啼いて薄暮の中を飛んでいた。ジョージは崖下に降りることを思った。いつも新平としたように渦潮の近くに行きたかった。
崖を降りることはそれほど難しいことではなかった。もう、体力を温存する必要はないし痛みもない。ただその肉体をずり落としていく。中途で力尽きればそれでもよかった。
木の根をつかみ、岩に当たってジョージは転がった。頭からずり落ちていった。崖下の砂利砂の上に横たわったジョージは、泥と生傷で人相が判らないほどになっていた。
ジョージは目の前に横たわっていた細い流木をつかむと、それにすがって立ち上がった。耳が聞こえない。完全に沈黙の世界になっている。
左手の大岩の外側は、潮流が盛り上がるように沸き返っている。吸い込まれるような勢いである。しかし、眼前の小さな入り江が逆回りしている。ニキシクの流れの激しさに、出っ張った大岩の内側が逆潮になっているのであった。
ジョージは杖を頼りに水際に近づいた。
…母ちゃん…
母の顔が現れては消えた。ジョージは、母だけがジョージの死に賛同してくれるような気がしていた。
激しい潮の流れによろめいて、ジョージはあらためて自分が海の中に立っていることを知った。音はしないがニキシクのラピッド(急流)が怒り狂っている。波濤が天空に届かんと、機関車のように突っ走っていた。
ジョージは身体をまわして西の方を見た。
天気さえ良ければサットンの山塊のもとにタッパーランドのレッド・ウオールズ(赤い岩壁)が見える。街の灯りも見えるはずであった。しかし何もない。手前にあるターミナルタウンですら、暮色のもやに呑み込まれていた。
その時、ジョージの網膜の片隅に妙なものが映った。薄暗く靄う海上になにかがある。波で上下に揺れているものがある。
(続く)