一. 

 足を前に出すたびに潮の音が変わる。驟雨に混じって高く鳴り、凹地に下ると途絶えそうになる。安藤新平と比嘉ジョージは、樹木の合間を前に出た。歩きやすそうなところを選んでは、もつれる足を引きずっていた。

「ウウウ…」

 安藤新平が泣いている。比嘉ジョージの長身を支えている新平の方が、泥と涙で顔をゆがませている。

 雨足が強くなった。

 比嘉ジョージは、左腕で脇下の刺傷を押さえていた。はいているズボンも血泥にまみれ、全身濡れてないところがない。

 顔が上がらない。後頭部が鈍くしびれ、濡れ毛布でも背負っているかのようにずっしりと重い。

「ウウ…お、俺のせいだ…ウウ」

 新平がしゃくり上げては思い出したように泣くが、ジョージの口からは言葉が出ない。首を振ることもしない。

 自らの手であごを押し上げ、ジョージの顔がやっと上がった。

「ジョージ…ウウ…」

 新平の泣き声が高まった。

 それは比嘉ジョージ本来の顔ではない。痩せぎすで頬の張ったいつもの顔はどこにもない。左顔面が焼きたてのパンのように腫れ上がり、紫にむくれて左目が開かない。両肩をまわして潮の鳴る方に目をやった。  

 喧嘩の相手は地元タッパーランドの「ホワイト・ホーク」という白人グループであった。捕まった安藤新平を助け出すことが引き金になったが、ホワイトホークとは少年時からの宿怨があった。二人は、仕事の帰りに五人のホワイトホークに襲われたのであった。

 カナダはバンクーバーの北八十マイル、ディスカヴァリー水道をへだてた炭坑町タッパーランドへは道がない。船でしか行けない陸の孤島であった。

 ジョージと新平は当地の日系人漁師から「漕ぎ手」として雇われていた。日系人はかなり早い時期からカナダの漁業界に進出していたが、エンジンを装備した漁船の操業は禁止されていた。この当時、つまり二十世紀初頭のカナダでは公然とした人種差別があり、日系人所有の漁船にはエンジン代わりの漕ぎ手が必要だったのである。  

 朝四時から漕ぎづめで疲れていたが、二人は船を降りるやジャップ・タウン(日本人居住区の蔑称)への裏道に向かって走った。雨の多い冬になると川ができ、沼地が出現して道が途切れるが、二人がこの近道を利用して帰路につくのは毎日のことになっていた。

 二人の行くてに二人の白人が立っていた。気がつくと左右、うしろからも囲まれている。同年代の過激グループ・ホワイトホークの五人であった。

「シン、逃げろ!」

 ジョージが叫んだ。ジョージの目に男たちの持っている凶器が見えた。それは明らかに計画的な待ち伏せで、若いジョージにも尋常でないことが分かったのだ。

 二人は別方向に走って藪林の中に隠れようとした。

 五人の目指す敵は、剽悍でなにかといえば白人社会に盾をつく比嘉ジョージに違いないが、すぐに新平の方が捕まった。

「ジョージ! たすけてくれ」

 男たちは動作の鈍い新平を人質にしたのだ。

「出てこい!」

 かん高い声が深閑とした森の中に響きわたった。ホワイトホークのリーダー格であるビンセントの声である。ビンセントはタッパーランドの警察署長ビクター・シモンズの長男であった。

「すぐに出てこねえと、この細え目がもっとスランテッド(つり上がる)になる。メガネをかけたってなんにも見えなくなるぜ!」

 新平はメガネをかけている。目が細いだけでなく身体も細くて小柄であった。

「それでもいいのか!」

 ジョージは出て行かねばならないことを思った。それは脅しなどでは決してない。彼等が新平になにをするかわかったものではなかった。

「要求はなんだ!」

 ジョージは藪の木陰に片膝をついたまま声だけを上げた。

「決闘だ。ジョセフがおめえとやりてえんだとよ!」

 ジョセフとは、最近バンクーバーから移住して来た葬儀屋の息子である。ボクシングの経験があるらしく、カラテとかいう東洋武道をする比嘉ジョージが標的になるのはいつものことであった。

(続く)

イラスト共に片桐 貞夫

 

読者の皆様へ

これまでバンクーバー新報をご愛読いただき、誠にありがとうございました。新聞発行は2020年4月をもちまして終了致しました。