2020年4月30日 第14号
朝起きたらまず外へ。桜並木を抜けて川辺へ向かい、ぐるりと10キロ歩いた後は、風呂で全身を温めて朝食をとる。こうして一日を体のケアから始め、その日の活動に出向く宮地昭彦さん(バンクーバー在住77歳)。最近までその活動の一つは日加ヘルスケア協会のボランティア業務だった。田中朝絵医師が協会設立を発起した時、「日系人のためにお役に立てれば」と迷わず協力。以来17年間総務理事として、月例開催の座談会の企画をはじめ、連絡や受付対応に至るまでを請け負ってきた。継続のモチベーションは「参加者の喜ぶ姿」だ。そして「多くの方に接すること自体が新しい発見であったり、人とのつながりができたりということが喜びであり励ましになったと思います」と宮地さんは語る。
協会理事長の田中医師は、今年3月まで理事を担い続けてくれた宮地さんのことをこう語る。「宮地さんは温かいんですよ。誰とでもお友達になってしまうんですね。そしてすべてを受け入れてくれた上で、何が大切かをぴしっと見定めてくださる。こういう人は稀だと思います。日加ヘルスケア協会は宮地さんのお人柄と惜しまぬ努力に支えられてきました」
そして宮地さんが長年続けているボランティアには、バーナビー市のヘルスプログラムほかで実施するマッサージや指圧もある。「ボケ防止ですよ」と言いながら、他の集まりでも世話役として立ち回る、その原動力となっているのはコミュニティへの恩返しの気持ちだ。
カナダ到着翌日の出来事
カナダ移住直後に日系人から受けた厚意を宮地さんは忘れられない。そもそも北米移住には東京農業大学在学中、アメリカで農業実習を経験したことが後押ししている。渡航前、永住ビザ取得のために訪れた在日カナダ大使館で「自分は移住後の仕事も住む場所も決めていない」と宮地さんが語ると、大使館の面接官は「カナダに行ったらこの人を訪ねるといい」と、ある人の名刺を渡してくれた。
トロントに着いた翌日が日曜日。日曜はレストランも食品店もすべて休みということは知らなかった。
「前日の夜から食べていなくてお腹がぺこぺこ。これはたまらないと名刺の人に電話をかけたんですよ」
電話を取った人物は、それから1時間と経たないうちに見ず知らずの宮地青年を迎えに来た。そして食事に連れていった後、「もう1泊そのホテルに泊まっていなさい」と告げ、翌日には下宿先と当座の仕事を紹介してくれたのだった。1967年4月の出来事だ。
日系の先人たちへの感謝
日系人への恩はそれだけではない。バンクーバーの日系人ガーデナーの下で仕事を始め、まもなくして独立した際も、広告に「ジャパニーズガーデナー」と出すだけで仕事の依頼が来た。先輩ガーデナーたちが獲得した大きな信頼のおかげだった。
そして志を同じくした先輩ガーデナーと1970年に会社を設立し、広い層の顧客を迎えることができた。多い時には10人以上のヘルパーを雇い、120件以上の顧客の仕事をカバー。すでに宮地さんはBC州のカレッジで造園を学んでいたが、仕事の傍らカナダと日本の通信講座ほかで学びを深めた。同業者からは「お前たちはポケットに手を突っ込んだままでお金をもらえて」と揶揄されることもあったが、その実、多くの時間を割いていたのは顧客への説明だった。
100本以上の松が植わったアパートのオーナーから「大きく伸びすぎたから」とまるごと伐採の依頼があった時のこと。宮地さんは「うまく剪定すれば50年は持たせられる」と見て、その方法と効果についてオーナーに詳しく紹介した。やがてその剪定方法を実践した庭がカナダの造園専門誌Western Living Magazineで取り上げられ、掲載から10年以上経ってからも、その専門誌がきっかけの剪定依頼が舞い込むことがあった。
お地蔵さんを彫る楽しみ
「もとから木が好き」という宮地さんの家には自作の木製のオブジェがあふれている。その一つが木彫りのお地蔵さんである。シンプルな粘土製のお地蔵さんを見た時に、「自分にも作れるのでは」と思い立ってから、これまで30体を仕上げた。彫っている時間は「自然と木と向き合い没頭できる一種の瞑想状態で、彫るということさえ意識しない至福の時です」。没頭しすぎて他のことがなおざりになって慌てることもしばしばだ。お地蔵さんの形については「中から『掘り出してくれ』と言っている、とまでは言わないけれど、自分の頭で考えて彫った気もしないんですよ」という。木の言うことに身を任せて彫る。その姿勢は、今回の取材を二つ返事でOKしてくれたことにも共通する。「与えられたこと、言われたことはまずやる」姿勢だ。すべては何かの必然で起こっていて、なるようにしかならない。そこでもし現実に抗えば、心も生活も荒れることは避けられない。ならばあるがままを受け入れ、そのうえで自分が最善を尽くすのみ——。宮地さんの彫ったお地蔵さんの表情には、すべてを肯定する強さと優しさがにじみ出ていた。
(取材 平野香利)