2018年9月13日 第37号
先住民の同化教育を目的としてつくられた、先住民寄宿学校。その学校生活中に死亡した生徒を埋葬した共同墓地が、マニトバ州のキャンプ場で発見された。
墓地が見つかったのは、同州南西部にある州内第2の都市ブランドンの郊外で、東西に流れるアッシナボイン川沿いのタートル・クロッシング・キャンプ場の敷地内。ここから、1972年まで存在していたブランドン寄宿学校で死亡した生徒の墓50墓以上が発掘された。墓石には生徒の名前は記されていなかった。
調査・発掘を行ったのは、先住民寄宿学校の記録を保存・展示する目的で設立された、同州マニトバ大学の『真実と和解のためのセンター(National Centre for Truth and Reconciliation)』。同センターの研究員で、以前は同センターの資料管理官(archivist)も務めていたアン・リンゼーさんは、こうした無名の墓に眠る人物の特定に10年間取り組んできた。これまでに名前が特定できた生徒の年齢は7歳から16歳にわたり、古くは1900年代の生徒のものもあった。
同センターが設立された経緯は、2007年に締結された『先住民寄宿学校に関する合意』まで遡る。この合意を基に、『真実と和解委員会』が2008年に設立され、2015年まで寄宿学校に関する調査を行ってきた。その記録を受け継ぎ、永年保存・管理する目的で設立されたのが同センターで、マニトバ大学内に2015年に開設された。
『真実と和解委員会』が行った調査からは、1883年から1998年までの間に、先住民寄宿学校に送り込まれた15万人を超える子供の中で、3200人余りが死亡していたことが明らかになっている。寄宿学校の最終目標は『先住民文化の虐殺』で、生徒への暴力は学内で組織的に行われていた。
しかし、いくら多くの生徒が死亡したことや、共同墓地が存在していたという証言がなされても、いつもそれらは事実無根だとして顧みられることはなかったと、マニトバ州先住民首長会議の総首長アーレン・デューマスさんは指摘する。「しかし、こうして今回その事実が見つかった。これはほんの一部に過ぎない」と、デューマスさん。
この無名共同墓地をリンゼーさんは、かつてブランドン寄宿学校の生徒だった人物が描いた一枚の古ぼけた地図を頼りに掘り当てた。その墓地の上にある、タートル・クロッシング・キャンプ場の3代目のオーナーとなるマーク・コバッチさんは、この事実に驚いているが、ブランドン市や地元先住民グループと連携しながら、発掘に協力すると話している。