寒風の中、江戸、吾妻橋から身を投げようとする若い男を必死になって止めた左官の長兵衛。
五十両の金があれば、この若い鼈甲問屋の店者が死なずに済むと知って、とうとうフトコロにある大金五十両を、この若い男にやろうとする。

とんでもない!と尻ごみする男に長兵衛が続ける。
「とんでもネエのは百も承知だ!俺だってやりたかネエや…イイカ、オウよくきいてくれ。俺はこんなナリをしてるから、おめえの金を盗ったと思われたくネエから云うことは云う…」

貧乏な長屋ぐらしの左官の長兵衛が、たまたま五十両と云う大金をフトコロに入れていたのは訳があった。
だるま横丁に住む長兵衛は三年この方、仕事をなまけて、あちこちの賭場を歩いて賭けごとにウツツをぬかした為に貧乏のドン底。どうにも、この暮が越せなくなって、とうとうカミさんと別れることになった。

それを見て今年十八になるお久と云う一人娘が吉原の遊郭へ駆け込み、自ら身を売って五十両の金を作った。その金をフトコロに入れていたのである。
その金があれば、この暮を越すことができるし、女房と別れなくても済む。

しかし、その五十両を期限の半年までに返せない時、娘は店へ出される。そんな血のにじむような五十両だった。

「…だけど、おメエは死ぬって云うんだからなあ…。俺んとこは死ぬんじゃネエんだ…。なあに、おメエにこの銭やっちゃって家へ帰ってカカアとゴタゴタして、家を仕舞っちゃってカカアと別れりゃあそれで済むんだ…。
人の命ってえのは、そんなもんじゃネエんだ…。やりたかネエけどやるんだ。この金で助かったら…今年十八になる吉原へ身を売ったお久と云う娘がネエ…悪い病でも引きうけネエように、オメエの信心する不動さまでも金比羅さまでもイイから、それを祈ってくれ…」

娘を思う長兵衛のつらく、しぼりだすような言葉だった。この金を、今ここでこの若者にやってしまえば、これから家に帰れば修羅場となるのは目にみえている。
着る物もなくて腰巻きがわりに風呂敷を腰に巻いたカミさんが今や遅しと長兵衛の帰りを待っている。断腸の思いとは、このことだった。

――イエ要りません!いりません!そう云うお義理のあるお金は!」懸命に断る文七。

「エエイ、こんちくしょうめ!だから俺だってやりたかネエけどテメエが死ぬって云うからやるんだい、こんちくしょう!取っとけ!!」

――イエ要りません!と文七。
「こんちくしょう取っとけこの野郎!」
長兵衛はフトコロの五十両をつかんで文七にぶつけて逃げた。
――オオ、イテエ…我に返った文七は、 みすぼらしいナリをした長兵衛がまさか本当に五十両の大金を自分にくれたとは思っていなかった。
――そんな汚ねえナリをして五十両の金があるかい!ああ痛え…引っ込みがつかなくなったもんだから瓦かなんかぶつけて逃げやがった…バカ!!
そう毒づいて足許を見ると本物の小判五十両が散乱している。
――オヤ!金だ、こりゃあ本当の金だ!親方、親方!私を助けてくださるんですか…親方…。ありがとうございます…ありがとうございます…ありがとうご…。
今、飛び込もうとした橋の上に、泣きながらへたり込む文七だった。
この一節がおそらく「人情噺・文七元結」の核をなす部分である。誰が考えても、女房と別れなければならない程の貧乏暮らし、ましてや一人娘が身を売ってこしらえた大事な金を、見ず知らずの文七にやるのは極めて辛い筈。
その信じられないような意外性に人は胸がつまる。志ん生の噺がこの下りに差しかかった時、寄席の客は静まり返って咳一つなかった。

さて後生大事にその五十両をフトコロに店に帰った文七が、その金を主人に渡そうとする。しかし主人の言葉に文七は動転する。
「お前この金をどこから持ってきたんだヨ!お前が帰ったあと碁盤を退けると五十両の金があった。その金はとうに、お役人が届けて下すった。その金はこっちにある。どこから持ってきたんだこの金は?どうしてお前は碁が好きだ?!どこから持ってきたんだヨこの金は!!」

「エッ!そいじゃ私が碁盤の下へ忘れて?さああ大変です!大変だ、大変だ、ああ大変だ!!」何が大変だ?!文七は半狂乱となる。金は盗られたのではなく文七が碁盤の下に置き忘れたのだった。「さあ大変だ不動さんに金比羅さん!」お前どうかしたのかい。落着いてしゃべんな…。

文七は漸く長兵衛に助けられたイキサツを話す。文七の話を信じられない主人に金をぶつけて逃げた長兵衛のことを話す。
「金を盗って逃げる奴はいるけど、金をぶつけて逃げるとは…でもむやみに知らないものが五十両?」イエ!それがそうなんでございます…。これは娘が吉原へ身を売ってこしらえた金なんだそうでございます。これが無いと娘さんは…。

 

2010年11月18日号(#47)にて掲載

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