私は関東にうまれ関東で育った。少年期を過ごした生地は、まだ江戸の匂いを感じさせるような城下町だった。
どちらかと云えば考え方も武骨だし、極めて義理を重んじる風土だった。

そんな町に育った私が、およそ百八十度もイメージが違う、平安の雅を色濃く今に残す京都に触れたのは中学生か高校生の修学旅行だった。

当時の蒸気機関車の焚く煙に煤けながらの長旅に膝頭をさすりながら、初めての関西でもある京都に降り立った。
旅行の前にさんざん京都の町の歴史や、日本の歴史の上での京都の来し方をたたき込まれた少年達は異国に一歩踏み出したような一種の興奮を感じながらお定まりのバス観光に三日間を費やした。

寺や社を中心にした観光は正直なところ疲れ果ててしまってあまり記憶に残っていない。
しかし土産物屋で初めて言葉を交わすことができた京都の人には、やはり生まれ育った関東の人達とは異なるものを感じた。
『千年の王城に住む人』に初めてまみえる一種の萎縮した先入観があったのか、京都の人達のやわらかく、つかまえどころのない言葉に圧倒されたのか土産物屋でも普段は口にしない敬語を使ったりした。
何しろ私の育った土地の言葉は直球型で物を買う時でも店の人の発する言葉は簡潔そのもので「アイヨ」とか「あゝ、今ネエンダヨそれ…」と云った具合いで子供相手の言葉とは云え、京都の土産物屋の女の人の話す言葉とはあまりに違った。

しかし四月の京都の桜は少年の心に浸みつく程美しかった。名刹の桜に圧倒され、声も出なかった。
生まれ育った土地と何かが違う。強いて言えば、ゆったり構えた余裕のようなものを感じたが十四、五才の少年には、それが何なのかわからないまゝに、又蒸気機関車に積み込まれて、まだ桜には早い郷里に戻った。

そんな、京都が何たるかも知らなかった私が成人して東京から大阪に三年間の転勤生活を命じられた時、近かった京都にあらためて足を運ぶことになった。

異国にあこがれを抱いた人間がその異国の地に住みついてしまったようなものだ。
人はその知ろうとする対象に近づく時、何か手段を求める。その頃既に生業のデザインの仕事とは別に絵を描き始めていた私の京都への突破口は、この古都の風景画を描くことだった。

京都の路地裏まで入り込んでスケッチをしながら、乏しい知識を補なうようにして、少しづつ京都のフトコロに近づいて行く。それは二十数年前に日本を遠く離れた今も折にふれ続いている。

もう十五、六年もの昔、私が京都の駅に程近い行徳寺と云う寺の門前にしゃがんで暮れはじめた小さな寺のスケッチをしていた時のこと。その寺には『身代り地蔵』と云う別名があった。
ネギがのぞいている買物カゴを持った高令のご婦人から声をかけられた。桜が散り始めた春の夕暮れだった。

「どちらからお見えですか…」えゝチョット遠くてカナダから参りました。
九十才に手が届くと思われたこのご婦人は多分、耳がご不自由だったのだろう。
「金沢も、もう暖かくなりましたでしょうねェ…」と云われる。

聴けば毎日この同じ時間にこの寺にお参りをかゝさないと云われる。それも朝晩二回。
聴く程に、この寺の別名『身代わり地蔵』の由来がわかって来た。自分が替ってやりたい不幸な人がいたら、誰でもここに祭られた地蔵尊に願をかけて、その願いを叶えて貰えるのだそうだ。 
その替り、その願いを叶えてもらえた時は願をかけた人がその不幸を背負って身代りになる。
理屈は解ったものの何だか厳しく寒い気持ちになったのは否めなかった。
そして、このご婦人の一人娘のご主人が胃癌を患っていて、それも末期に近い病状であることを知った。
「主人のあとを、お願いしようと思って楽しみにしておりましたんどす…」
ご主人は何だったか忘れたが京都の伝統的な手工芸造りに携わっておられる様子だった。このご婦人が、その患っている娘婿の命を助けて貰う為に、毎日この地蔵尊にご自分の命と引き替えに願をかけに来られている事を知ったのである。

スケッチを描く手が止まってしまった。悲しくて手が動かなくなって何か熱いものが私の胸の中からこみ上げてくる。

私はもう、こんな年だから、いつでもよろしいのに、お地蔵はんが仲々叶えてくれしまへん…。
淡々と微笑みながら話されるだけに、ご婦人の言葉が、かえって辛かった。たまらなかった。

「そうなんですか…」私は何と云って話を継いだらイイのか返事も出来なくなっていた。ご自分の命を捨てゝ娘婿の命を救おうとする、この高令のご婦人の澄んだ美しい心が、あまりにも悲しかった。
毎年、桜の季節になると又の名を『世継ぎ地蔵』とも呼ばれるこの寺を思い浮かべる。

私は以前、この日本を代表する古都、京都に住まわれる人々に対して、何か他府県に住む人と異なる特殊な感情、例えば俗に云われるような腹の奥を見せない京都人の一種、高邁な部分があって当然だと思い込んでいたフシがある。

しかし、この高令のご婦人からにじみでる、人の苦悩そのものの言葉を聴いて、どこの古い町でも感じる暖かい心を京都に対して思った。
以来、以前にも増して京都に思いを馳せ、カナダの奥深い自然の絵を描く反動のようにして京都の町の絵を描き続けた。

中でも立派な寺や社はともかくとして、古い町並みに電柱が林立し、電線が無数に密集した家屋に継がれ、入り込んでいる風景を見ると、日本の一番大事なものを守り、守り続けてゆこうとする京都の人達のこだわりと、一種の連帯の心を感じる。
この電柱は私が描く町並みの絵を引き締めるアクセントでもあった。
しかし、その私の好きな電柱も他の町と同じように次第に撤去されて電線が地下に埋められていることを聴くと少し淋しいなと思う。電柱は私が子供の頃の遊び道具の一つでもあった。馬跳びの背もたれであったり、駆逐水雷と云う遊びの陣地だったから…。

二〇一〇年十月。カナダ西海岸は恒例の雨期に入り、私が住むサンシャイン・コーストの小島も毎日雨模様。
でも、私にとってこの静かに降りしきる雨は、日本人の心のふる里「京都」を絵にする絶好の機会でもあって、以前取材した「少し前の京都」に浸りながら、キャンバスと向き合う日が続いている。

 

2010年11月4日号(#45)にて掲載

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