時は七十年代。始めたばかりのデザイン事務所は、やたらに忙しかった。
たいした仕事を引き受けている訳ではないけれど何しろ人が少ないから、画材は買いにゆかなければならないし、人が訪ねてくればお茶も自分でいれなければならない。
掃除もするし、夜は小さな仕事場の戸締り…と毎日雑用に追われる。名刺に代表戸締役と書きたい位。
そんな一日が終るのは、どうしても八時、九時である。当時の仕事場は東京・神田だったから仕事が終って外に出ると赤ちょうちんや飲み屋の看板が目に入り、どうしても一息つきたくなる。
気の知れた居酒屋に居座って昼間の憂さばらしをする。時間が経つほどに酔が廻ってきて、好きな魚釣りの話などはじまったら、もうダメだ。
時間は時計を見るたびに三十分づつ進んでアッと思った時は終電車に走るハメとなる。
当時、中央線の小金井市に住んでいた。
国電の快速電車に乗ればさして苦労もしないでネグラにたどり着ける。そう、家はネグラだった。家に着けばアトはひたすら睡眠をむさぼるような毎日。土曜、日曜もあって無いようなものだった。 
しかし終電車ましてや、その時間になると電車は鈍行で疲れている上に酔が廻っているから、寒い時は座席のヒーターに又お燗をされて眠り込む。無理の無い話である。
今思えば乗り越しの常習犯だった。
ある日、東京の西のはずれ神奈川との県境に近い高尾駅まで乗り越した。家に帰る距離の倍であり鈍行だから、かなり眠ったことになる。もう昇りの電車はとうに終り静まり返った高尾駅の改札をフラフラしながら出る。改札の駅員もいない。
駅の周辺も暗くて良く見えないまま、たった一台停っていたタクシーに乗り込む。
「どこか泊まれる所は無いでしょうか?」なんとか寝ぐらを探さなければならない。
「こんな時間じゃなあ…」どこをどう走ったのか三十分程タクシーが走って、ここしか無いと云う宿に着いた。
運転手に明朝六時に又迎えにきて駅迄つれていって貰う約束をした。タクシーの赤いライトが遠ざかり闇に消えた。唯々暗くて寒くて心細い。タクシーを降りた場所がどう云う地形なのか全くわからないしシーンとして音もない。でも目の前の小さな門灯を灯した宿以外に周囲に家がなさそうで雑木林の一角に立っているらしいことが肌でわかった。宿の形も暗くて判然としない。
「こんばんは…」小さな声で玄関のガラスの引き戸を開けたが誰も出てこない。宿の中は電気も消されて静まり返っている。もう一度こんばんは…と云ったら小さい電灯がついてオカッパ頭の着物を着た若い女の人が二人でてきた。双子のようによく似ている。でも表情のない白い顔だった。
あの今夜一晩泊めて頂け…そこまで云ったら片方の女性が「ハイ、伺っております。どうぞ…」と云った。どうして私が来ることがわかっているのか不思議だったが運転手が知らない内に無線で知らせたのかもしれないと思って気にしないことにした。
上がったところは十畳位の板の間で黒光りしていた。
裸電球の灯りが暗くてよく見えないものの、その板敷の間からどうやら三方にまっすぐ廊下が伸びているらしい。先の方はよくわからない。
朝のお食事はここに用意しておきます。私達は居りませんがどうぞ召し上がって下さい。つまり宿に上がって最初の板の間で食事をすることになるらしい。
それではお部屋にご案内いたします。そう云って一人の女性に真ん中の廊下を連れられて一つの小部屋に入った。朝は誰もいないと云われたので宿代を払ってそのままフトンにもぐり込んだ。時刻は既にあしたになり、とにかく眠い。
フトンがヤケに湿っぽくて寒かったけれど熟睡して五時半に目覚めた。誰もいない廊下に出て手探りで夕べの板敷の間に行くと部屋の真ん中に一人分のお膳が用意されていた。裸電球の下でキョロキョロしながら一人で食事を済ませた。酔いざめの味噌汁がうまかった。具は油揚と豆腐。
食事を済ませてから顔も洗ってないことに気がついた。そう云えば部屋に洗面所もなかった。イイヤ洗ったってたいして変りばえもしない顔だから…と暗い玄関で靴を履いて、一言「お世話さまでした」と声を発したが誰も出てこない。外に出ると暗い中にもう頼んでおいたタクシーが停っていた。運転手は一言も口をきかないけれど、どうやら夕べの人ではなさそうだ。
駅の暗いホームにはそれでも何人かの人がいた。走り出した上り電車から外を見るとようやく薄明るくなってきた。それにしても、シンプルで不思議な宿ではあった。
板敷の間から三方に伸びる先が暗い廊下がバカに記憶に残る。数年後、高尾駅周辺を車で廻る機会があったが鬱蒼とした雑木林ばかり目についてあの晩の宿の場所は見当もつかなかった。

 

2010年4月29日号(#18)にて掲載

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