本屋の店頭には健康法やそのたぐいの雑誌が目につく。庶民の健康意識が高まることは結構なことで、たいしてお金もかゝらない簡単な健康法に関心が集まるのは、それだけ心の余裕があるからだと思う。
世の中には、いろいろな健康法がある。
手足のしびれ、めまい、耳鳴り、更にぜんそく、頻尿、腰痛、肩こり等々、を解決する先人の知恵が健康雑誌にあふれている。
それも意外な健康法があるもので、スギナのお茶を飲んだら血圧が下ったとか、耳たぶを揉むと不眠、ダイエットに効くなど信じられないような効用が紹介されたりする。

何かの本で逆立ち健康法と云うのを読んだことがある。一日に一定時間逆立ちすると健康維持に著しい効果があると云う話だったが、これは結構、腕の力がないとできないし、逆立ちしている間は、テレビも逆さまだし、新聞も読めない。電話が鳴ったりすると、あわてて逆立ちを中止して這って受話器に、にじり寄ったり、目が廻って転がったりする。それによほど暇でないと、昼間からできない。
カナダに移り住む時、NHKのラジオ体操をテープに収めてきたが、どこかに行ってしまって見つからない。
健康維持とはむづかしいものである。

以前バンクーバーに住んでおられて、今は日本に戻られた知人がいる。
彼は以前、血圧が高い時期があったけれど、薬など飲まずに自分が信じる健康法を毎日実行することで完全に高血圧を克服した。
たばこをやめることで四苦八苦している、意志の弱い自分から見ると全く頭が下がる。

それと云うのも、彼が実行した血圧を正常に戻す健康法は、よほど覚悟して意志を強くしないとできないことである。
その健康法は、別にそれほどやゝこしいことではない。一日に必ずリンゴを一個食べること。それに一日中裸。スッポンポンで生活すること。
まことにシンプルではあるものの終日裸で過ごすと云うことは、なかなか難しい。
しかし彼はそれを実行に移した。
もうリタイアしているからと云っても家の中には奥さんがいる。いくら奥さんとは云っても、おのずと程度がある。事情は解っていても、そうそう気まゝに家の中を歩き廻るのは、はゞかられる。
奥さんが台所で食事の支度などをしている所にブラブラと話をしにいくのも考えものだし、面白そうなTVの娯楽番組を見たいからと云って、いちいち側に座り込めば奥さんも落ちつかないし、急に人が訪ねてくることもあるからいろいろ厄介なこともある。

しかし一番の問題は、年頃の娘さんが一日の仕事を終って帰ってきてからだった。
徹底してこの健康法を実行する為には、彼はどうしても自分の部屋に籠りがちにならざるを得ない。
でも、何としても部屋を出て母子がテレビなど見ている極く近くを通らなければならない時がある。
それはトイレにゆく時で、どうしても一瞬、彼は母子二人の目にさらされてしまう。

その時だけ風呂上がりのように腰にバス・タオルでも巻けばよさそうなものだけれど、彼の忠実な実行力はそれを良しとはしなかった。それにいちいち面倒だった。

それではどうするかと云えば娘さんに己の裸をさらす危険がある場所では急いで走るしかなかった。
目に映った残像をなるべく短時間に縮めるためで、昔、戦国の忍者も、この技を使ったそうだ。
娘さんは父親が血圧が高いことは知っていても、まさか一日中、一糸まとわず生活しているとは思っていない。

ある時、彼は奥さんと娘さんが昼間の会社の話などしながら団らんしている側を、どうしても通らなければならない必要があった。トイレだ。
いつもなら閉めてある茶の間の障子が、夏の暑い時なので開けてある。
彼は思い切って茶の間の前の廊下を走った。鶴のように痩せた彼の体が風のように障子の開いた部分を通過した。
時間にすれば一秒の何分の一である。

しかし人間の目は凄い。娘さんはTVの方を向いていたのに、その目は自分の横を疾風のように通り過ぎた何かをしっかりとらえていた。ホンの一瞬の光景なのに…。
「何!いまの?」
奥さんはともかく娘さんがビックリするのは当然である。事情を聞いた娘さんは
「やだあ、もう…」
それ以来、あまり口を利いてくれない。健康法も大変だ。

バンクーバーの大学UBCの西の浜辺にヌーディスト・ビーチがある。一度参加したが、なかなか勇気が要る。
どうしても、品評会のように思えてならないのだ。


2013年1月17日号(#3)にて掲載

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