私が生まれて育った東京近郊の町は、江戸の面影を色濃く残す町で、寺や神社が沢山あった。
辛うじて戦災らしい戦災にも遭わなかったので、子供達が遊ぶ場所は無数にあった。それは神社の境内であったり城趾であったり、ちょっと足を伸ばして郊外に出れば、小動物との出遭いにも恵まれていた。

私が暮らした家から少し離れた町はづれに東明寺と云うお寺があって、その近くに母の妹家族が住んでいた。私と同い年のいとこがいたので小学生だった私は、たびたび家から歩いて遊びに行った。
子供の足で三十分の道のりだった。
釣竿をかついで三十分も歩けば小魚が釣れる川があったが、いとこの家に遊びにゆく楽しみがもう一つあった。

夕方のいつも決まった時間になると遠くで拍子木のカチカチと云う音がきこえてくる。東明寺の門前に自転車に乗った紙芝居屋が来た音である。
テレビなんか無い時代だから子供達にとっては当時、紙芝居は何よりの娯楽だった。
確か三円か五円の紙芝居代を握りしめた子供たちが寺の門前に集まってくる。

今は、もう紙芝居屋と云う商売はすたれてしまって、日本全国でも数える程だそうである。テレビやコンピューターの時代だから当然のことだけれど私が子供の頃には楽しみを届けてくれる紙芝居屋のおじさんには無上の親しみを感じ尊敬感すらあった。
東明寺の前に自転車を据える、この紙芝居屋のおじさんは「ひょうたんオヤジ」と云う綽名があった。頬が極端にこけていて陽に焼けた顔は、ひょうたんそのものだった。

おまけに出っ歯だから、出しものが時代劇の鞍馬天狗だったりすると語り口に迫力があって、子供は紙芝居の画面を見ないでおじさんの顔を見たりしていた。
自転車の荷台にとりつけられた紙芝居のセットは組立式でうまくできている。三円か四円を出すと抽出しから、干からびた昆布やスルメ、飴玉などを子供に手渡す。それをしゃぶっている子は、入場料を支払った証明になる。

いづれにしても、お金を払った子供に手渡される物は大したものではなかった。それこそ子供だましのようなものばかりだったが、子供たちはそんな安物の景品を後生大事にしゃぶりながら、ひょうたんオヤジのしゃべる時代劇や「家なき子」のような哀しい話に一喜一憂したのである。

紙芝居と云うのは云ってみれば一人芝居の最たるものだから語り口もいろんな声音を使わなければならない。
出し物によっては悪漢も登場するし可憐な少女も出てくる。場合によっては妖怪も現われる。それらの声を一人のおじさんが演じるのだから、下手な声優はかなわない。
さすがのひょうたんオヤジも少女の声になると照れ臭そうな顔で金切り声になる。
女の紙芝居屋と云うのは私の知る限りではいなかった。

集まってくる子供たちの中には親から小遣いをもらえない子供もいる。そんな子供たちは、おじさんの目にとまらないように、ソッと体をかがめて集まっている子供のウシロにまぎれ込む。無料入場である。
そうすると口から泡をとばしながら熱演中のおじさんがめざとくそれを見つけてとがめる。
「その時、どこからともなくきこえる馬のヒヅメの音、遂に鞍馬天狗の登場である!!
コラ!ダメだよ、ちゃんとお金を払わないとダメだよ!」と云う具合である。
しかし、おじさんはそれ以上は云わなかった。子供も心得たもので、いつの間にかまぎれ込んでしまう。
考えてみれば囲いもない劇場だから入場規制する方が無理なのである。

冬の木枯らしが吹く季節でも鼻水をすゝりながら子供達はおじさんの名調子を聴くために小銭を握りしめて駆けつける。
時代劇のストーリーに手に汗を握り、哀しい物語には昆布をしゃぶる手も止って、おじさんのしゃべりにのめり込んだ。
やがて三十分も過ぎると、三巻か四巻の出し物が終って紙芝居が畳まれ、おじさんは又自転車にまたがって、たそがれの巷に姿を消していく。
二十人程の子供たちも又それぞれの家に散ってゆく。

紙芝居と云う商売が始まったのは昭和十年頃だそうだ。
私がひょうたんオヤジの嗄れ声に一喜一憂したあの頃が紙芝居の全盛の頃だったのかも知れない。
でも、その頃だって子供が好きでなければ、とても続けられる仕事ではなかったと思う。三円や四円のお客さんが何人集まっても高が知れていた。夕暮れの町に自転車を押しながら消えていった紙芝居屋はもう戻ってこない。私達の心の中にだけ生きている。


2012年11月22日号(#47)にて掲載

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