その頃は、たびたび市内にサイレンの音が鳴り響いていた。その都度幼かった私も大人たちと一緒に、カビくさい防空壕に連れていかれて、しばらくはジッとしていなくてはならなかった。

防空壕はとなりの家と我家との間に掘られていた。
頭巾をかむって暗い穴倉に入ると近所のおばさんや、隣りの芸者置屋の師匠などもいて空襲警報なのに賑やかだった。
太平洋戦争も末期の頃の私が生まれて育った町でのことである。

兄は時節柄、学校にも行かず近郊の工場へ通って戦地へ送る鉄砲のタマを作っていたし父親は出征していて、家には私のほかに母親しかいない時代だった。子供心にも味気のない毎日だった。

防空壕に入り入口の階段から上を見上げると隣家の大きな銀杏の樹が見えた。
少し前までは毎日のように東京が空襲でやられていたが余勢をかって敵はとうとう東京に隣接する町にまで戦闘機を飛ばすようになった。
暑い夏の盛りである。戦争だろうが空襲だろうが蝉はうるさい程鳴いていた。
中でも、ヒグラシの声は今思い出しても何かが終わることを告げるように、ひときわ余韻を感じさせる。

大戦が終って半世紀をはるかに超す歳月が過ぎるのに、毎年盛夏が近づくにつれ、あの終戦まぎわの、空気がよどんで動かなくなってしまったような一種の息苦しい、閉塞感を憶いだす。
学校へ通う子供は河童のように素足だった。若い方達には信じられないだろうが履きものもなかった。
先生が食べざかりの子供たちを連れて近郊の田圃へゆき子供たちにイナゴを採らせる。そのイナゴは炒って食べた。

子供たちには勿論、戦争のいきさつなどはわからない。しかし良い時代と云うものを経験したことのない子供たちは世の中と云うのは、こう云うものだと思い、唯やたらに腹をすかせていた。

ある時、校内放送で職員室に呼ばれた。行ってみたら私の家に続く路地の入口に日本の戦闘機が落ちたから、早く家に帰れと云われた。
ランドセルを背負って、一人ハダシでピタピタ歩いて家に帰ったら路地の入口にあった写真館に戦闘機ゼロ戦が突っ込んで路地はガレキで埋まっていて、家にも帰れなかった。
一体どうしたものかと思ったら、前夜近くの旅館に泊った飛行士が翌日前線へ飛行機を届ける途中で、低空を飛んで宿の女中に手を振る約束をしたらしい。
結果は低く飛び過ぎて割烹料理屋の高い煙突に翼が当ってしまった事故だった。
子供心にもやりきれない気持になったことを覚えている。

ある日の午後、又空襲警報が鳴り響いて、防空壕に引きずり込まれた。
十分もしない内に敵の戦闘機が現われた。
私はその頃、毎日ちゃぶ台に座って裸電球の下で戦争の絵ばかり描いていた。遊び道具も何もないから、それだけが唯一の楽しみだった。

敵の戦闘機がどんな形をしているのか見たくて、フラフラと防空壕の出口に近づいて空を見上げた。
その時私の目に大銀杏の向こう側から真っすぐ、こちらに突きさゝるように飛んでくる二機の飛行機が見えた。
極めて低空だし、見る見る内にその敵機が近づき、私には搭乗員の顔まで見えたような気がした。イヤ確かに見えた。
突然だれかが私の首っ玉をつかんでウシロに引きずり倒し、同時にゴゴゴゴ…!!と云う機銃掃射の音が耳をつんざいた。私は驚いて壕の中に仰向けに倒れたまゝ泣いたのを記憶している。

やがて敵機が去って私は壕の外に出た。
あちこちに無数の弾痕がある。屋根の瓦は飛び散り立木がへし折られていた。
その内、私は何かに当って跳ね返ったらしい機銃弾をひろった。少しゆがんではいたが銅製で今思えば十センチもあるものだった。重かった。

そしてその弾の表面に色のリングをはめたように七色のレインボー・カラーが彩色されていた。子供心にも美しいと感じた。
その頃の日本の戦局はあとになって知ったことだけれど作戦が何一つとして成功せず一方的な米英の攻勢にほんろうされるばかり。
日本軍の兵士が身を捨てて奮戦しても物量豊富な敵の進撃をくい止めるのは、焼け石に水のようなものだったのだろう。まもなく終戦。
それは今となってみれば、幼かった私が防空壕の入口で体験した機銃掃射の弾一つを見ても、もっと早くから歴然としていたような気がする。
毎年八月になるとこの虹の色を思い出す。つらい思い出と共に、急に静かになった日本のあの夏の日を憶い出す。

 

2012年8月02日号(#31)にて掲載

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