七〇年代のはじめ東京神田の雑居ビルの一室にスタジオを持って仕事に追われていた。
決して時間通りにはゆかない職業なので、毎日仕事を終えて外に出る時間もまちまちである。
神田は寿司屋が多い。行きつけの寿司屋が神田駅の近くにあって店の名前はS寿司。
カウンターに七人も座ればそれ以上は無理と云う小さい店で仕事が終わるとよく転がり込んだ。

旦那を含めて三人の板さんがカウンター越しに客と世間話をしながら寿司を握る。
私は辛党なので酒を飲む。
どういう訳か酒を飲みながら寿司をたべると息苦しくなって顔が赤くなると云う妙な体質だった。多分、酒と米が体の中で一緒になって何等かの反応が出たのだろう。

従って酒を飲みながらマグロや蛸をつまむ。そして仕上げにカッパ巻きや鉄火巻きで締めくくりパッと切りあげる。
旦那は五十代のヤセ型の人で、機嫌がイイ時はニコニコしているものの、元々神経質な人で虫の居所が悪い時は眉間に八の字寄せて目付きが鋭くなる。二人の板さんはピリピリしていた。
鮮度が命の寿司屋だから仕方がないのだろうと思って、そう云う時は客も静かになる。

五月晴れの続くある日、旦那が私に「どう神輿かついでみる?」と云う。珍しくニコニコしている。
間もなく神田明神のお祭りで神輿の巡行の日だった。
訊けば段々神輿のかつぎ手が少なくなって困っていると云う。商業地の空洞化である。旦那は祭りの役員らしい。

義を見てせざるは勇なきなり!!酒が廻っていた私は一も二もなく引き受けた。考えてみれば神田に仕事場を持ち地元の人間のようなものだ。
一生に一度は神輿をかついでみたいと思っていた私は先のこともよく考えずに胸を叩いた。まだ三十代である。

旦那がもう一人連れてこいと云う。五月の連休の或る日私は仕事場に早く着いて、広告代理店勤務のW氏と身仕度をした。彼も以前から神田の神輿にあこがれていた一人だ。
二人で股引きをはき、サラシを腹に巻く。法被を着て白足袋をつけ草履をはいた。
お互いに姿を見合って吹き出した。何となく纏を持たせたら奴さんのようだ。
「あのねェ大名行列じゃないんだからさァ!!」
その足で勇躍二人は集合場所のS寿司に行った。
寿司屋の旦那が云った。「何だよ、その鉢巻きは!!運動会じゃないんだからさあ!!」
二人とも豆しぼりの手拭いを頭のウシロでゆわえていた。手拭いをよじって頭の横で結わけと云う。
寿司屋の振る舞い酒が出た。景気づけの冷や酒である。
駆けつけ二杯のコップ酒は効いた。さすがに寿司屋の旦那のイデタチは颯爽として様になっている。普段の気むづかしいオヤジではない。

神輿がかつぎ出される神田明神には観客も含めて人があふれていた。かつぎ手が減ったと云う割には法被姿のかつぎ手が大勢いる。
中には小股の切れ上がったような粋なお姐さんもいる。
鉢巻を前のめりに締めた姿は鉄火姐御を思わせるいなせな清々しさがあり惚々する。

神輿が動き出す前に又振る舞い酒を飲まされた。冷や酒をカップに五杯もあおったら堪らない。半分でき上りだ。
ウロウロしている内に神輿が動き出した。あわてて神輿の棒にとりすがる。

神輿をかつぐ棒がこんなに太いとは知らなかった。まるで太い角材である。それがドスンドスンと肩に当る。痛いこと夥しい。神輿の動きと呼吸が合っていないのだ。W氏はと見れば、粋なお姐さんのウシロにピッタリくっついて半眼を閉じて恍愡の境地である。私の前には禿げ頭のおじさんがいて五月の日射しに反射してまぶしい。
私ははじめワッショイと声をかけていた。しかし皆「セーヤ!」とかけ声をかけている。途中からかけ声を変えた。

どこから出てきたのかと思う程の沿道を埋める人垣である。由緒ある神田明神の神輿は江戸っ子の気っぷをしのばせる祭りで明治中期から町神輿一本にしぼられたと云う。
神輿の上に飾られた金鳥が五月の陽を受けてキラキラと輝き柳が青めいていた。

いかんせん振る舞い酒を飲み過ぎた私は一丁もかついだところで神輿から脱落した。
普段、細かい筆やコンパスを持って何ミリの線を引いている人間が神輿の太く重い棒に肩を叩かれ通しで保つ訳がない。肩は赤く腫れ上った。
歩道のへりに腰をかけて休み、又ヨロヨロと立ち上っては神輿についてゆく。何とも不甲斐ないかつぎ手であった。

後日S寿司に行ったらオヤジが何も云わず「参ったか!」と云う顔をしてニタッと笑った。


 

2012年7月19日号(#29)にて掲載

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