昭和三十四年、社会に出て間もない夏の夕暮れ。
私は神宮球場の外野スタンドの下、フェンスの内側でオープン・カーの床に転がっていた。
これから始まる大イベントの興奮で体は極度に緊張している。堅くなるのも無理からぬ話で、私と一緒にそのオープン・カーの後部座席に一人腕組みをして瞑想しておられるのは、プロ野球チームの南海をひきいて、パシフィック・リーグの優勝を果たした名将鶴岡一人監督その人だった。

私がデザイン部門に席を置いた広告代理店は、この年セ・パ両リーグから選ばれた代表選手によるオール・スターゲーム「夢の球宴」の開会式の演出、プロモートをしていた。日がとっぷり暮れかかった神宮球場、観覧席を埋め尽くした観衆のざわめきが嵐のようにきこえている。
はるか遠く過ぎ去った昔のことで、制作部門に席をおいていた私が本来、会社の実施部と云うセクションが全て取り仕切る筈のこのようなイベントの現場に何故狩り出されたのか良く思いだせない。

まして私は関東で生まれ育った人間で、どちらかと云えば当然のことながら長嶋茂雄や藤田元司が全盛であった巨人軍になじみが深い。それなのにパシフィック・リーグの覇者、南海の監督の乗るオープン・カーに同乗している。
今となっては思いだせないことばかりである。

その日私はこの昭和三十四年オールスター戦第一戦の開会式のセレモニーの場で、神宮球場の外野、センターのフェンスのドア位置からスタートし球場を半周する南海の鶴岡監督のオープン・カーに演出の一スタッフとして乗った。
反対方向に半周するのは、巨人軍、水原監督で、二台のゆっくり進むオープン・カーがホームベースのところで合流し、そこで数百のオープン・カーを覆っていた風船が一勢に空に解き放たれる。
そしてセ・パ両軍の監督がオープン・カーから降り立ち初めて観衆の目にふれる。
そして握手。そんなプログラムだった。

なぜ私がパシフィック・リーグをひきいる鶴岡監督が乗るオープン・カーにのって、監督の足許にころがっているかと云うと、オープン・カーがホームベースに到着した時カミソリの刃で車にとりつけられた無数の風船のヒモを切る為だった。
私はあくまでも黒子だから風船が空に飛んだ時、決して観客の目に映ることは許されないのである。

センターのフェンスの扉が開き遂にパレードが始まった。観衆の大歓声が津波のようにきこえる中をホームベースに向かってオープン・カーがゆっくり移動する。
三分程車が走った時、それまで腕を組んで目を閉じておられた鶴岡監督の声がした。
「今年のスポンサーはどちらさんです?」床に転がって固くなっていた私が答えた。
「ハイ。サンスター歯磨さんです」それで会話は終ったと思った。
「そうですか。ご苦労さんですなあ。あなたがたも……」

私は鶴岡監督の言葉が自分のききちがいかと思った。
観客の歓声と行進曲の中できいた監督のあの嗄れ声は、しかしまさしく私に向けられた言葉だった。

何と云うことだろう。夢の球宴と云うシリーズ戦とは違う娯楽色の強いゲームとは云え、パシフィック・ファンの期待を一身に背負った鶴岡監督の重圧は計り知れない。
なのにこの人はその大事な初戦を前に足許に転がっている世の中に出たての若造を気遣って労いの声をかけてくださった。
「イイエ、とんでもないス」
鶴岡さんの思いもかけないやさしい言葉に私は返す言葉もなかった。行進曲がやんで楽隊のドラムが地鳴りのように響き、そして止まった。

しかし風船のヒモがうまく切れなくて予定の三倍も時間がかかってしまった。見れば鶴岡さんまで中腰になってカミソリを手にヒモ切りを手伝って下さっている。
そして鶴岡さんは、カクテル光線がとび交うグラウンドに降り立った。その背に向かって一言「監督スミマセンでした。ご健闘祈ります!」それが私の精一杯の言葉だった。

「ありがとう…」独特の嗄れ声を残してホームベースに向かう鶴岡さんの背中に、自分はさておいても人を思いやろうとする名将の心の深さを私は見たような気がした。
このオール・スター戦のあと行われたシリーズの決勝戦で、鶴岡一人率いる南海は、セの覇者巨人に四連勝して日本シリーズも制覇した。
法政大学卒業と同時に南海ホークスに入団。六年間の兵役ののち一九四六年監督に就任され幾多の名選手を育てられ親分の異名を持つ監督だった。
ご存命であれば、もう一度お会いして、あの時はごめんなさい…と一言いいたいのに…。


2012年6月7日号(#23)にて掲載

読者の皆様へ

これまでバンクーバー新報をご愛読いただき、誠にありがとうございました。新聞発行は2020年4月をもちまして終了致しました。