私が住むサンシャイン・コーストのペンダーハーバー一帯の海域はボタン海老漁のメッカである。
水深百メートルあたりに群れているこの海老を狙って出漁する漁師が沢山いる。
日本の市場にもかなりの海老が出荷されているそうだ。

三年程前に近くのB&Bを経営しているオヤジから一人の日本人の客を紹介された。岩手県の漁師でKさん。
見るからに海で鍛えられた赤銅色の風貌は一刀彫の仏をほうふつとさせる六十才。
筋金入りの日本漁師を感じさせる彼はゴム草履ばきだった。
日本のある水産物の貿易会社に顧われて当地のエビの漁獲を日本に出荷する前の処理から箱詰めまでの指導に来たとのことだった。
B&Bに一ヶ月泊り込んでエビの出荷工場の従業員の指導に明け暮れるK氏を陣中見舞に行った。
海老にはサイズによる等級の選別があり、どちらかと云えば大ざっぱな現地の従業員には苦手な作業。
その従業員に片言の英語でトツトツと指示をするK氏。そうすると等級別の箱にピタリと決められた数の海老が収まる。明らかに経験がなければ出来ない指導だった。

K氏は当地に滞在したほゞ一ヶ月、毎日のように我家に来た。夕方、漁船が桟橋にかえるまで彼の仕事は無いからヒマを持てあまして昼頃から毎日我家で私と酒を飲んだ。
日本の東北の漁師の訛りがまじった話は海の好きな私にとって興味しんしん。
楽しくて一ヶ月がアッと云う間に過ぎてしまった。

ある時、酔いざましに私のボロボートを舫っている午後の桟橋に彼を連れていった。一通り小さなキャビンの中で私の魚釣りの仕掛けや道具を見せた。
タバコに火をつけて深く吸い込んだK氏がボソッと云う。
「これじゃあ、たいしたもんは釣れねえベヨ…」
こんな糸だら鱈でもきたら千切れるべ…。
職漁師と晩のおかず専門の釣り好きとの違いをイヤと云う程、思い知らされた。

彼は九十才を過ぎた母親と二人暮らしだった。
おふくろも、そろそろ呆けてきたから老人ホームに入れベエと思ってる。
オレも仲々手が廻らネエしなあ…。そう云いながら岩手の海を思い出すように目を細めて海峡を見るK氏だった。

予定した一ヶ月の滞在期間が終った彼が六月の或る日、日本に帰った。
しばらくしてK氏から小包みが届いた。目が細かい大きな網が入っていた。
裏庭の小さな畑にまいた日本野菜の種を鳥にほじくられて頭を抱えていた私を彼は憶えていてくれた。
種をまいた畑を覆う網だった。有難かった。

いつの日か岩手の海で漁をするK氏を訪ねて彼の操る船で魚を釣ることを思いえがいていた私は二〇十一年三月十一日のあの忌まわしい東北大震災のニュースに打ちのめされた。赤銅色のK氏の顔が浮んだ。
すぐに、まさかと思いながら次々に被害の全容が明らかになるニュースを耳にしながらわなわなする手でK氏の住所を確かめた。

岩手県上閉伊郡大槌町。
まぎれもなく大津波で町が飲み込まれて町長まで亡くなられた土地だった。しばらく繰り返してかけた電話にも応答が無かった。発信音すらない。
K氏が送ってくれた網を見るのが辛かった。
数カ月、大槌町の被害を報道するニュースもまともに見られなかった。

そんな或る日、一本の電話があった。「俺だよ、イギテルヨ…」忘れもしないK氏の東北弁だった。私にはそれが地獄からの声のようにきこえて、耳を疑った。
聴けば地震の直後、漁師の直感で車にとび乗って山の方へ逃げたらしい。子供の頃から繰返し教えられた教訓だった。家は全半壊、船も流され毎日朝から海を見ながら酒を飲む日が続き、とうとうアルコール性の肝硬変になり一滴の酒も口にできなくなった。
船までさらわれた漁師の心の痛みは到底計り知れない。

酒も飲めない彼に心ばかりの甘い食べ物を届けたら、又彼からの電話があった。
自分の手で家を修理しているので貰った義援金は小さい船を買っても少し余りそうだと云う。
「何か不足しているものはネエカ…岩手の海のものでも送ってやるベエ…」
この人はなんてことを云いだすんだろう?!と思った。現地はガレキの山で復興なんていつの事になるのか解らないのは承知である。それどころじゃないだろう…と思ったら急に胸が詰まった。
知己、俳人岡本久一氏(現代俳句協会会員)の一句。

ふるならば 
   あたたかき雪 
      みちのくに  久一

 

2012年3月29日号(#13)にて掲載

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