家の中のどこを探しても甘い物のない時代があった。
物資と云う物資はすべて微用され、食糧は元より調味料に至るまで戦う兵隊さんの為に供出された大戦末期の頃である。甘い物などあろう筈もない。
幼年期から少年期にかけてのいわゆる育ち盛りの子供にとって適量の糖分は成長に欠かせないものだと云う。
しかし無いものは無いのである。その頃の自分を振り返ってみても確かに甘い食べ物にいつも飢えていた。

それは自分が子供を持つ身になって初めてわかることだけれど、甘いお菓子や飲み物を欲しがる幼ない子供に、単純にそれがない…と云う理由だけで与えることができない親の辛さは並大抵のものではなかった筈だ。

あとになって知ったことだけれど、日本の戦局がいよいよ悪化した昭和二十年頃は学童疎開の女児たちがお手玉の小豆を食用にしたりしたと云う。考えてみれば不憫なはなしである。甘いものなど、とんでもない時代だったのである。

多分、その頃のことだったと思う。私が育った町の家の近くに一軒の食品も扱う駄菓子屋があった。
店の名前はタムラと云った記憶があるものの定かではない。わずかながら佃煮や梅干しなどの惣菜が置かれた小さな店だった。
その店頭に、ほんのわずかな甘い菓子がガラスケースの中に並んでいた。

豆板と称する小豆を砂糖で固めた菓子があった。直径が六センチ、厚みがせいぜい五ミリのもので一枚確か五円だった記憶がある。
台所に砂糖すら満足にない頃だから私にとっては少し大ゲサに云えば憧れの的で、母親にねだっては、お金をせびって何枚かの豆板を買って食べた。他に比べる甘い物がないから豆板の虜になった。

その頃は例えば月始めにまとめて小遣いなど貰った記憶はなくて、その都度親の袖など引っぱって小銭をせびるスタイルだった。
父親は支那事変に続いて二度目の出征をしたので全権は母親にある。だから母親につきまとう。
多分、体が甘いものを要求していたのだろう。あまり豆板代の要求が過ぎたのか、それとも文字通り甘やかしてはならない…と云う母親の思いからか、ある時簡単には下給金が貰えなくなった。

いつも豆板が頭の中でチラチラしている甘味欠乏症の少年は切実に悩み考えた。
勿論、家計のことなどは思案外である。唯ひたすら甘いものを口にしたかった。

玄関の三和土のスミに下駄箱があった。その下駄箱の上によく母親が蟇口を置いていることに目をつけた。
やむなく甘味欠乏少年は体の要求に負けて小銭を頂戴した。そしてタムラに通った。一度味をしめたら悪事は続く見本のようだった。
もうこれで豆板の欠乏は解決したと思った。少年の浅智恵である。

しかし或る時、超常現象のような現実を目前にして甘味欠乏少年は飛びすさった。
何度目かの悪事に手を染めようとした時、蟇口が私から逃げるように動いたのである。
追うように手を伸ばすと又スッと蟇口が動く。これは一体!と思った時、母親が勝ち誇ったような顔で登場。見事に御用となった。
母親が蟇口に木綿糸をつけて、ホシの何度目かの犯行を手ぐすねひいて待っていたのである。

もう後のまつり。母親はむんずと私の手首をつかんで「さあ行こう!」と云う。どこへ行くのかと思ったら警察だと云う。ワッと泣き出す豆板少年は玄関の戸にとりすがるものの母親の力にはとうてい太刀うちできず、引きずられて袋小路の真ん中までズルズルと…。警察は目と鼻の先。

小学校の教員をしていた若かった母が例え甘味の欠乏が犯させたとは云え自分の子供に悪事のケジメを教えようとした気持は今になってみれば痛い程わかる。
しかしどうも少々オトリ捜査を楽しんでいたフシもある。未だに少し癪なのだ。
因みに当時の物価を調べてみるとラーメンが二十円、小学校教員の給与が約四百円、巡査の給料四百二十円、公務員の給料が五百四十円とある。

大戦末期、幼ない少年といえども「怒れ一億火の玉だ」などと云うキャッチフレーズに本気でお国のためになろうと考えていたけれど、ドッコイ甘いものの誘惑には勝てなかった…と云うお粗末な逮捕劇である。
そんな事があったせいかどうか私は甘いものが大嫌いな人間になってしまった。
キャンディー等とんでもない話で、頼まれたって大福など手が出ない。酒は体内で糖分に替ると聴いたけれど…。

 

2012年3月8日号(#10)にて掲載

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