ペンダーハーバーには一つの名物がある。それは初冬の11月頃にやってくる太平洋からの猛烈な風雨を伴った嵐。
大海原と本土を隔てるようにバンクーバー・アイランドが横たわっているものの、この局地的な嵐には降参である。

電力会社がサンシャイン・コースト沿いの電線を懸命に守ろうとしても、六、七回襲ってくるこの嵐には、その都度どこかしら樹木がなぎ倒され送電線はズタズタになる。 
そうなったらTVは勿論、電話は不通、キッチンの熱源も電気だから、炊事もできない。冷蔵庫は唯の箱になる。
夕方から始まった嵐は最悪で、ロウソクの灯りが頼りとなり、キャンプ用のプロパンボンベのコッフェルで黙々と食事を済ませて暗くなったら寝るしかない。
まるで戦時下の灯火管制のようだが私のような幼い時に太平洋戦争中の空襲を体験した旧式人間は、俄かに動きが活発になる。暗闇で目が光る。
さし迫る危機を察知して懐中電灯など手にして、家族に指示が飛ぶものの、時々自分で階段を踏みはずして足をくじいたりする。
昔「釜なくして飯を炊く法」と言う名言があった。その答えは「鍋で炊け…」

復旧が遅れて停電が二日も長びくと、指揮官も疲れ果てて動きが鈍くなる。
この季節を過ぎ、クリスマスも終ってやがて来る春を待つ。二月にクロッカスの黄色と紫色の花が、そこここに咲きやがてペンダーハーバーが野の花で彩られる。
豊かな自然の中に身を置くと言うことは、厳しい自然の洗礼も避けて通れないということだろう。

暖かくなった六月の或る日、近くに住むピートに誘われて彼のバギー車に乗った。
サンシャイン・コーストの北の山を越えて、インレットの奥のスクー・カムチャックに向かった。

スクー・カムチャックは、一日に四度、潮の干満による大量の海水が、狭い海峡を通り抜ける所。地球の鼓動を感じる名所である。
八十才をとうに過ぎたピートが道もなくなった谷間のガレ場にバギー車を走らせる。普段のおだやかな彼と違う険しい表情だった。
恐らく雨期に大量の水が流れる山の襞のような岩がゴロゴロしている谷を急角度で登ってゆくんだから堪ったものではない。
うっかり喋ったら舌を噛みそうなバギー車の揺れに、いつも平地でウロウロ暮らしている私は身体のネジが全部ゆるんで骨が分解するのではないかという恐怖感に襲われる。少々の肩こりは治ってしまう。
二時間も走って頭がボウーッとしてきた時、ピートが車を止めて、指を指す方を見ると大きな動物の白骨化した死体がある。ヘラ鹿だった。
多分、コヨーテかクーガーか、もしくは狼の餌食になったのだと云う。

急に背筋に寒さを感じたものの、気をとり直してようやく登りつめた峠の見晴らしはフィヨルドの地形を上から見る、私にとっては初めての経験だった。清々しい大自然の風が頬に心地よい。標高千三百。
ピートがコケモモの実をつんで、土産に持って帰れ…と言う。今日のバギー車登山にしても頼んだ訳でもないのに…。優しい人だと思う。
クーラーボックスのビールとクラッカーで食事をしながら彼のルーツはポーランドであることを知った。
おそらく年代的に第二次世界大戦の何らかの苦悩を体験している筈だと思った。日本と同盟国だったドイツに少なからず影響を受けた国だから。
しかし話がそのことになるとピートは唯、黙って青く光るインレットを見つめるだけだった。鼻の下の白い髭が初夏の太陽に光っていた。
約束を必ず守る彼の実直さは日本人のそれに通じるように思えた。峠の景観は「越えてゆく」と云う絵になった。

七月になって裏庭の桜の木が沢山のサクランボをつけた。もう烏を追い払うのも疲れ果てて、黒い群団の食べ放題。
九月の終りになったら、プラムの木にオレンジ色の実が無数に成った。七年前に買ってきた一メートル程の苗を植えたもので、何も手入れもしないのに七メートルにも育った。柔らかい甘い実を食べにくるのはアライグマ。

彼らが荒らしにくる直前を見計らって実をとる。
一つ一つ採っていられないから、力を込めて木を揺するとバラバラと実が落ちる。
とても食べきれないから、この実を梅干しと同じような工程で漬け込む。

辞書を見るとスモモだけれど、出来上がった漬け物はホンノリ甘味のある梅干しと変わらない逸品となって日本人にはありがたい。
樹の形や枝ぶりは違うけれど、スモモと梅は味と香りからして遠い親戚かもしれない。

 

2012年2月9日号(#6)にて掲載

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