luna
人と、馬と、犬と、すべての生き物が共存する South Lands
- Photographed by Ritsuko

ヴイッキーが倒れた
昨年11月のこと。抜けるように素晴らしい青空の晴れた朝、今日は乗馬日和!とばかり、South Landsのステーブルズ(註1)に向い、いつものように馬たちにお早うを言いながら、干し草の渇いたすてきな香りと、すえた馬糞の臭いのミックスした匂 いのたちこめる厩舎に入ってゆく。キ-ンとしまった朝の冷気の中で、厩舎のあちこちから、馬のいななきと、ぶるるーんという馬達の荒い鼻息の音が聞こえ、 同時に馬の白い息が見えて来るこの瞬間が、わたしにとってはまさに至福のとき。

すると、厩舎の暗がりからこのステーブルズのオーナーでかつ私の乗馬の先生ジャンが近づいてきて、青ざめた顔で「昨夜大変な事があったの!!」と切り出 し、「一睡もしてない、もう疲れきっている」と矢継ぎ早に話しはじめた。その話と言うのは、昨日の夕方、心臓が弱っていてしばらく運動ができなかった8歳 の雌馬ヴイッキーを友人のリズが、まだ乗ることはできないけれど散歩ならと久しぶりに馬場に連れ出し歩かせていた。しばらく調子よく歩いたところで、ヴ イッキーが突然泡を吹いて倒れてしまった。リズのものすごい叫び声に、その時本当に運良くというか、厩舎に他の馬の身体チェックに来ていた獣医さんが急を 聞いて現場に駆け付けたけれど、もう心臓が停止している状態で手の施しようのない状態だったと。ヴイッキーはジャンプが得意な馬で、リズは競技で何回も入 賞していて、彼女(ヴイッキー)のロッカー(註2)には幾つもの入賞リボンが飾られていた。いつも乗馬の練習が終わると、友だちと一緒におしゃべりしなが ら、鞍を降ろし、馬のからだの手入れをした後、私が自分の馬にご褒美の人参をやっていると後ろから、鼻で私の背中をぐいぐい押して来て、「アタシには、く れないの!!」とばかりに甘えるお茶目な黒馬ヴイッキーだった。

ジャンが言うには、馬場のなかで倒れたのは不幸中の幸いだったと。というのは、ここSouth Lands には、Fraser River 沿いの堤を通り Pacific Spirit Regional Parkを抜けて、UBC からJericho Beach にまで続く素晴らしい自然に恵まれたトレールがあるのだが、もしも、トレールの途中、Regional Parkの森の中で馬が倒れてしまったとしたら、トラックが入ってゆくことは不可能なので、運ぶことはできなかったと。また、彼女が乗っている時でなく て、よかったとも。もし、乗馬の最中だったら、彼女は放り投げられたか、あるいはそうでなかったら馬の重いからだの下敷きになっていた可能性もあると。 「リズはどうしてる?」と聞くと、「相当ショック受けている。今日は仕事休んでいるかも知れない」と。

冥福を祈るために
ジャンがさらに続けていうには、「だから、ナオコ、今日はレッスンできない。」それはそうでしょう、そうでしょう、尤もです、それはかまわないから。 「ヴイッキーがまだ馬場にいるから。」エエーーッ!! 今、何て言ったの?? 「ヴイッキーが昨日の夕方、馬場で倒れてから、そのままになっているか ら。」‥‥‥‥‥‥「で、もうすぐトラックが来て、ヴイッキーを運んでゆくから。ナオコ、それは見ない方がいい。重いから鎖でくくるしかなくて。それを、 男達がトラックに投げ込むのなんて、見ない方がいい。」リズも来ない?!

それは、あんまりだ。それってない!!

私は、運ばれる前に、どうしても彼女にさよならを言いたかった。馬場に走っていった。馬場の真ん中でヴイッキーは黒いからだを横たえ、硬直した4本の脚 をつっぱらせ、目をむいたまま(馬は死ぬ時目を閉じない)、口元に白い泡を残して、死んでいた。一生懸命彼女のからだを撫でて、「がんばったよね、がん ばったよね。」と話しかけてあげるのが精一杯で、私には何もできないという悲しみで、ただただ、涙が止まらなかった。
やがて、火葬場の人が来て、ヴイッキーはトラックに乗せられて、去っていった。馬場には私の他には誰もいなかったが、私は、ひとりでも彼女を見送る人が いた方がよいという思いで、頭をたれ、彼女を見送った。丁度、日本で、亡くなった人の出棺の車を見送るように。

これは今思い起こしても不思議なことだが、馬場に人はいなかったけれど、馬場の周りのパドックには、30頭ほどの馬達がいた。秋の晴れた日はいつも、彼ら は太陽の下でおもいっきり御機嫌に跳んだりはねたり、いなないたり、それはそれは賑やかなものなのだが、ヴイッキーが運ばれていくこのときは、馬達は皆頭 をあげてただただ静かに見送っていた。いななくものは誰もいなかった。

このすぐ後、ジャンのオフィスにゆき、日本の習慣を話した。彼女の冥福を祈るため、馬場を浄めるために、馬場に線香を立てて祈ってもいいかと、聞いたと ころ、ジャンの顔がほっとしたように明るくなり、「じゃその後に、馬達が入ってもいいのね」と。20年以上も、馬のトレーナーと乗馬のコーチをして来た ジャンにとっても、馬が馬場の中で亡くなった体験は初めてだったようで、どうこの状況を処理してよいのか、混乱していた様子だった。

この後、家にすぐ取って返し、日本から母が送ってくれていた線香「沈香」を、ヴイッキーの倒れていた場所と、馬場の4隅に焚いた。ヴイッキーはクリス チャンかどうかは知らないけれど、また彼女は英語以外は理解できないだろうけれど、とにかく「般若心経」を唱えた。終わり頃になって、乗馬の練習のため何 人かのライダーが三々五々馬場のゲートに集まって来ていたが、皆ただ黙って私の儀式の終わるのを馬と共に待ってくれていた。私が祈り終えて、馬場を出る時 に、その中の一人サンデイーが、「中に入るのは、線香の火が消えるのを待った方がいいようね。」と言って、私にうなずいてくれた。私がステーブルズを出て 駐車場から馬場の方を振り返ると、彼らが馬にまたがったまま、ゲートの外で静かに立ち尽くす姿が見えた。その光景は私にとっては、サンデイーに対する感謝 の気持ちと共に、今でも忘れられない。

生物には生命がある
仏教には、「四弘誓願」という4つの誓いがあり、その最初の誓いが「衆生無辺請願度(しゅじょうむへんせいがんど)」(1)である。この意味は、「生命 あるものは限りなけれども、誓って導かんことを願う。」(1)言い換えれば、仏の功徳を、あまねく一切の生きとし、生けるものに及ぼすということになると 思う。この「生命あるもの」とは、人間だけではない。生命を持つ生物すべてを意味する。

では、生命を持つ生物とは何か? それは、自分自身で自己複製をおこなうことができるもの、自己増殖をすることができるものをさす(2)。例えば、今あ なたが読んでいるこの新聞の「紙」は、自分自身でもう一つの自分、あるいは自分の子どもをつくることはできない。それは無生物だから。それを物質といって もよい。でも、私たち生物は、それができる。それが、「生命」を持つ生物である。

さらに、新しい分子生物学の定義を借りれば、生物は、生命の動的な状態を持っていて、秩序を守るだけではなく、その秩序を絶えまなく壊し再構成してゆく ものでもある(2)。私たちは、しばらくぶりに会った知人に「お変わりないですね」などと挨拶をするけれども、実は時間を経ることで、私たちの身体は分子 レベルですっかり入れ代わっているのである(2)。かってあなたの一部であった原子、分子、ひいてはかっての同じ細胞はあなたの内部には全く存在してない のだ。つまり、私たちの内部は、絶えず、死にながら、生き続けているとも言える。

それでも、あなたが同じあなたとして、生き続けている生命の神秘を考える時、人間だけでなく、私たちがこの地球でたまたま、今という時間を共に生きている動物をはじめとする無数の生物たちに、畏敬の念を持たざるを得ない。

私は、何人もの尊敬する心理学の研究者や精神科の先生たちとの出会いと、不思議な運命によって、心理学を学びカウンセリングという仕事を与えられている けれど、この「心理学」は「人間だけのもの」と考える傲慢さは最後まで持ちたくないと思っている。「心理学」は全ての「生命体」に働きかけのできる学問で ある。この私にとっての個人的な心理学の考えを、「馬のささやきが聞こえるとき」の連載を通して、これからも読者の皆さんにお伝えしたいと考えている。

註1 多くの馬を預かっていて、屋根付きの馬小屋の厩舎と野外の囲われた冊のパドックと、乗馬の練習のための馬場からなる。
註2 ステーブルズでは、すてきなことに、ロッカーにはオーナーの名ではなく全て馬の名がついている。

参考文献
1)「仏教聖典」、東光禅寺水月道場発行、昭和59年
2)福岡伸一、「生物と無生物のあいだ」、講談社現代新書、2007年

お断り:
この本文の登場人物(馬)には、本人のプライバシーの保護のため、全て仮名を用いました。

昨年、父を亡くし喪に服しておりましたため、この連載をしばらく中断し、読者の皆様には御迷惑をおかけしました。今年改めて再開させて頂きます。


<この内容は、プライバシーを考慮し、氏名、年月、状況などは、治療のプロセスの説明のための正確さを損なわない限りの、最小限の修正を加えてあります。>

 

~ EQUINE SPIRIT ~
Holistic Work Counselling & Consulting
Dr. Naoko Harada, Ph.D., R.C.C.
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読者の皆様へ

これまでバンクーバー新報をご愛読いただき、誠にありがとうございました。新聞発行は2020年4月をもちまして終了致しました。