2017年9月28日 第39号

ユダヤ人自治とイディッシュ語による文化を構築していこうとする社会主義運動「ブンド」の活動家たちも、独ソの脅威から逃亡した。

 

少年時代のシュラマ・パーカル(中央)と両親、妹たち, 1924年。(パーカル家提供)

 

■ブンディスト

 モントリオール・ホロコースト博物館に、2000年6月と10月に収録された杉原ビザ受給者シュラマ・パーカルの証言ビデオが保存されている。彼の前半生が「ブンド」の思想や仲間と強く結ばれていたことがよく分かる内容だ。

 シュラマは1914年、ポーランド東部の町ジェルフでユダヤ系の家庭に生まれた。父モルトカは「ブンド」の信奉者だった。

 1920年、モルトカは妻と三人の子供を連れてウッチ市に移る。ここで息子シュラマは、ブンドがユダヤ人の民族語とするイディッシュ語で教える学校に通い、イディッシュ文化に浸る。同30年代にはブンドの活動家「ブンディスト」になっていた。

 1939年9月、第二次世界大戦勃発。シュラマは、ブンドの立役者の一人ビクター・アルターについて逃走。しかし途中、アルターはソ連当局に逮捕される。シュラマは、ブンディストが多数逃げ込んでいたリトアニアのビリニュスに急いだ。

 

■カウナス警察署での出来事

 ビリニュスに着いたシュラマは、ブンドの仲間との連絡にカウナスまでの15キロほどを毎回歩かねばならなかった。カウナスに住む方が便利だ。そこで、居住許可の申請に同地の警察署へ行く。

 申請書類に署名を求められた。見ると、シュラマは「旧ポーランド国民」とある。独ソに分割占領されたポーランドはもはや存在しないということだ。彼は署名を断る。その理由を署員から尋ねられ、「ポーランドは消滅していない」と答える。二人の間で険悪な会話が続く。ついに署員は、「ここがどこだか分かっているのか。NKVD(ソ連内務人民委員部)のオフィスだぞ」と言う。ソ連秘密警察だ。シュラマは署名せざるをえなかった。

 身分証明書類は、「預かり書」と引き換えに取り上げられた。後日、その預かり書を持って居住申請の可否を聞きに来るようにと言い渡される。

 ビリニュスに戻ったシュラマは、カウナスの警察署での顛末をブンドの仲間に話す。すると全員が口を揃えて言った。「危険だ。二度とカウナスには行くな」

 書類を取り戻すことができなくなったシュラマは、新たな身分証明書を手に入れた。

 

■連なって受給したビザ

 1940年8月、ソ連はリトアニアを併合。危機を察知し、ブンディストらは国外脱出を計画する。避難民の間では、最終目的地や通過する国々からのビザに関して噂が流れていた。「カウナスの日本領事館で通過ビザを発給している」

 日本領事代理・杉原千畝からのビザ受給に、ブンディストらが領事館で連なって並んでいたことが、杉原が作成したビザ発給表からうかがえる。例えば、8月16日、発給表番号1799から1832の34人のうち13人がブンディストと彼らの家族であったことが、関係の子孫三人により確認されている。四人連番での受給もある。飛び番号で名前が確認された三カ所では、それぞれ二つの番号の間の名前もブンディストであった可能性がある。

 また、シュラマは証言ビデオで、警察署での一件以来、彼自身でカウナスには行けなくなったが、ブンドの指導部の一人が、シュラマを含めた仲間の身分証明書を持ってカウナスへ行き、日本通過ビザを受給してきてくれたと語っている。

 ビザ発給表を見ると、シュラマがビザを受給した8月19日の1965・66・67番の受給者はドイツ国籍。続く68番からポーランド国籍に変わり、この日最後の発給1982番まで15人全員がポーランド国籍。シュラマはこのグループの1969番。73・74番は前記子孫らによりブンディスト夫婦と確認されている。70・71・75番の三人は、関連文献と関係者によるとブンディストであった可能性が高い。以上の続き番号に含まれる72番もブンディストであったとみられる。したがって、少なくとも1969番から75番まで、ブンディストが7人連なっていたことになる。

 

■共に移動し生活

 日本通過ビザを受給後、シベリア横断鉄道の乗車も、日本滞在中も、日本政府により移動させられた上海でも、シュラマはブンドの仲間と一緒だった。

 終戦後の1947年、やはりブンディストで既にモントリオールで暮らしていたラーマー夫妻(当連載5回)の尽力でカナダに来ることができた。しかし、ポーランドに残っていた両親と、二人の妹のうち一人はホロコーストの犠牲になっていた。

 大戦が始まる4カ月前の1939年5月、シュラマは仕事の合間にウッチ市に戻り家族と休日を過ごした。ワルシャワに戻る日、両親はバスの乗り場まで一緒に来て見送ってくれた。バスが発車するまでそこに立ち、車内のシュラマを見ていた二人の姿がまぶたに焼きついている。「それが最後になるとは思わなかった」とビデオのシュラマは涙した。

 モントリオールで30年以上もの間、服飾業界の組合で働き、労働協約の向上に雇用主や政府を相手に強力な交渉役として活躍したかつてのブンディスト。シュラマ・パーカルは、2002年、生涯を閉じた。  

 

●参考文献
・Steve (Szlama) Perkal’s Life, recorded at the Montreal Holocaust Museum in 2000, transcribed by Corinne Baumgarten. ・United States Holocaust Memorial Museum, Flight and Rescue, 2001.

(取材 高橋 文)

 

 

シュラマ・パーカル、1940年。(パーカル家提供)

 

杉原千畝作成の日本通過ビザ発給表で、8月19日に発給された1968番から同日最後の1982番までのポーランド国籍15人。シュラマ・パーカルは1969番。(ヤド・バシェム・アーカイブからのコピー)

 

 

 

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