2017年12月7日 第49号

杉原千畝が発給した日本通過ビザで、どのぐらいの数の受給者が日本に入国したのか。日本入国に至らなかった受給者の事情とは。

 

エドワード・ヘクトコプフのポーランドパスポートにある2種のビザ。左:オランダ名誉領事ヤン・ツバルテンダイク発給の蘭領キュラソー島上陸ビザ。右:杉原千畝の手書きによる日本通過ビザ。(ヘクトコプフ家提供)

 

■ 「杉原リスト」とビザ発給数

 1940年、リトアニアの在カウナス日本領事代理・杉原千畝は、同年7月下旬から8月下旬まで、ナチスドイツの迫害から逃れようとするユダヤ系避難民に日本通過ビザを発給した。その発給表いわゆる「杉原リスト」は、杉原が翌41年2月、次の任地チェコスロバキアのプラハで作成したものだ。リストには受給者名が2139番まで打ってある。それに関連し次の3点が挙げられる。

①杉原はビザ発給中、途中から番号を付すことを止めたと夫人の幸子が後年に記している。
②リストでは、8月22日から発給数が激減している。しかし幸子は、8月末はビザを求める人々が増えることがあっても、減りはしなかったと証言している。
③8月下旬の発給で、リストに記載されていない受給者のビザが発見されている。

 他の状況も併せ、ビザは杉原リストの2139より多くの数が発給されたと考えられる。さらに次の3点が説明される。

①受給者の国籍は9カ国に及ぶ。その9割がポーランド国籍である。
②一人の受給者名に家族(あるいは他人)数名が含まれたビザがある。
③杉原ビザは偽造され、そのビザで日本に至った人々がいる。

 

■日本に入国したビザ受給者の数

 杉原から日本通過ビザを得た受給者らは、そのビザを見せることにより「ソ連出国ビザ」を手にすることができた。その後、ソ連併合下リトアニアを出てモスクワへ向かいシベリア横断鉄道に乗車。極東の港町ウラジオストクから船に乗り、福井県の敦賀港に着き日本に入国した。

 到着時期は1940年秋から41年春。入国者数は正確には分からないが、杉原ビザ受給者の9割がポーランド系であったことに注目すると、次の3点が手掛かりになる。

①当時の駐日ポーランド大使タデウシュ・ロメルは、「40年秋から41年夏までに約2300の避難民がポーランドから渡ってきた。その97パーセントがユダヤ系で、主にビリニュスとカウナスから来た」と、42年作成の報告書に記している。
②杉原ビザ受給者でシオニストのリーダーであったゾラフ・バルハフティク(当連載18回)は、「40年7月から41年8月まで、ポーランド系ユダヤ避難民2718人が日本に来た」と著書に記している。
③神戸ユダヤ協会が42年に作成した集計表では、40年7月から41年11月までに日本から出国したポーランド系ユダヤ人の数は2063とある。

 さらに、ロシアの研究者による報告では、40年・41年、シベリア横断鉄道に乗車しウラジオストクへ向かった避難民の数を基に、ソ連から日本に渡った杉原ビザ受給者と同偽造ビザ所持者は2500人までとしている。

 以上いずれの報告からも、杉原ビザ受給者の日本上陸は2000人以上であったと推定される。

 

■日本に入国しなかったビザ受給者

 杉原ビザ受給者は必ずしも日本に至らなかった。受給後、気持ちが変わりリトアニアに留まることにした場合に加え、次のような理由が考えられる。

①ソ連出国ビザを得ることができなかった。
②旅費の工面ができなかった。
③1941年6月、独ソ戦の開始でソ連領からの出国が不可能になった。

 またロシア側からの報告では、40年12月から41年3月までに492の偽造杉原ビザが摘発されたとある。これらの所持者も含めソ連領から脱出できなかった杉原ビザ受給者は、シベリアで拘留されたかホロコーストの犠牲になった可能性が高い。

 

■日本を通過せず逃亡

 杉原ビザで日本からではなく、別ルートで逃亡を果たした受給者がいる。ワルシャワ出身のエドワード・ヘクトコプフと妻のワンダだ。

 1940年7月30日、まず二人はカウナスのオランダ名誉領事ヤン・ツバルテンダイクから蘭領キュラソー島上陸ビザを得る。それを翌31日、杉原に見せ日本通過ビザを受給。さらにそれをソ連当局で見せ、ソ連出国ビザを取得。その後モスクワへ向かい、41年1月22日、トルコ大使館で同国通過ビザを得た。同大使館では、40年12月末から41年3月13日までの2カ月半ほど、通過ビザを発給していたからだ。

 トルコ通過ビザを手に、夫妻はモスクワから列車でソ連領内を南下。オデッサから船に乗り黒海を渡り、41年2月、トルコのイスタンブールに着く。さらにシリアとレバノンを通過し、3月、目的地としていたワンダの両親が待つパレスチナに到着した。

 その後、南アフリカのケープタウンに移り、二人の娘が誕生。1961年、一家は英国に移住した。娘の一人はこう語る。

 「両親は日本通過ビザのおかげでソ連から出国できた。スギハラは命の恩人。スギハラからのビザは私たち家族にとって貴重な宝の一つです」

 ヘクトコプフ夫妻のように、日本を通過せず逃亡に成功した杉原ビザ受給者が他にもいたかもしれない。いずれにせよ、ソ連領から脱出の突破口となり、ひいては命を救う旅路へと受給者らを押し出したのは杉原ビザだった。

(取材 高橋 文)

 

 

ワンダ・ヘクトコプフ、南アフリカ、ケープタウン、1952年。(ヘクトコプフ家提供)

 

左:エドワード・ヘクトコプフ。右:杉原ビザ受給者のアラム・ルクセンバーグ。40年8月2日、日本通過ビザ受給。41年2月25日、神戸到着。その後、南アフリカと英国でヘクトコプフ家と親しくした。南アフリカ、ケープタウンのビーチにて、1950年代中頃。(ヘクトコプフ家提供)

 

 

 

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