2017年11月9日 第45号

1940年・41年、日本に着いた杉原ビザ受給者にとって、最終目的地へのビザ入手は至難であった。カナダも厳しく門戸を閉ざしていた。

 

ナテック・ブルマン(後列右端に立っている)。専門知識を生かしリトアニアのキダイニーで学生たちに農業を指導した。1940年春。(ブルマン家提供)

 

■避難民のための会議出席を渋ったカナダ

 第二次世界大戦をはさむ1930年代から40年代中頃までのカナダ政府のユダヤ系避難民への対応は、先住民への差別・虐待や、真珠湾攻撃直後からの日系カナダ人への排斥などと並び、カナダの歴史上、暗い影の部分である。この期間の連邦政府の排他主義は、二つの国際的な出来事を通して象徴される。一つは「エビアン会議」。

 1930年代、ナチスドイツの台頭に伴いユダヤ系避難民が増加。38年3月、米国は避難民の受け入れに関する国際会議の開催を世界に呼びかけた。避難民受け入れに気が進まないカナダ政府は参加表明を引き延ばす。4月下旬、ようやく代表団派遣を決定。「発言は最小限に。いかなる約束も責任も引き受けないように」と申し合わされた。

 同年7月、フランスの避暑地エビアンで開催された会議では、参加した32カ国の大半が、カナダ同様、避難民の受け入れを増やさないとの言い訳に終始した。

 

■上陸懇願を拒否

 カナダがユダヤ系避難民の窮状に冷淡であったことは、「セントルイス号事件」での無干渉でも説明される。

 1939年5月、937人を乗せたドイツ客船セントルイス号は、ハンブルクからキューバに向かう。乗船客の大半がナチスドイツの迫害から逃れようとするユダヤ人で、キューバ上陸許可証を持っていた。しかし、船がハバナ港に到着するまでに同国政府はその許可証を無効とし、船の入港を拒否。数日後、30人ほどは上陸できたが、900人以上は乗船したまま、やむ無く米国へ向かった。だが米国も入港拒否。ユダヤ人を乗せた船はヨーロッパに引き返すことを余儀なくされた。そのうちの多くの者が、数カ月後、ナチスドイツにより捕らわれ、強制収容所で露と消えた。

 セントルイス号の船長は、キューバや米国に入港を拒否された時、南北アメリカの他の国々にユダヤ人乗船客の受け入れを懇願した。しかし応じる国はなかった。カナダもその一つだった。国内から救援の声も上がったが、マッケンジー・キング首相は、断固として無視するようにという政府高官からの助言もあり、沈黙を保った。

 

■カナダ移民法での避難民受け入れ

 カナダの移民法の最初の制定は1869年。以来、人口や経済の動向を見ながら、修正と変更が繰り返された。移民入国者数は、1913年の40万人がピークで、翌14年からの第一次世界大戦、その後の世界恐慌の影響で低調が続く。

 カナダ統計局によると1931年から39年までの移民入国者数は約14万7千。そのうちユダヤ系は約5千と関連文献で報告されている。全体の3パーセントほどでしかない。カナダ国内での反ユダヤ感情や、当時はまだ避難民受け入れ方針がカナダにはなく、財産を剥奪されたユダヤ系避難民が一般移民と同様の条件下で審査されたことなどが背景にある。

 第二次世界大戦中の1941・42・43年の移民入国数はそれぞれ1万人にも満たず、その中でユダヤ系避難民の入国はさらに難しかった。この間、ヨーロッパではホロコーストが進行。ユダヤ人受け入れの人道的な対応が一番欲しい時期であった。

 日本では、1940年秋から41年春、ポーランド系ユダヤ人を主とする杉原ビザ受給者の多くが、最終目的地からのビザを得ようと東京、横浜、神戸の各国公館を訪ね回っていた。

 一方、英国にあったポーランド亡命政府、日本とカナダのポーランド大使館は、カナダ政府にもポーランド系ユダヤ人の受け入れを切々と訴える。だがカナダ側では、ポルトガルに追い込まれたユダヤ系避難民の受け入れ問題も持ち上がり、数や対象者の選考を巡って状況は紆余曲折。キング内閣の対応は冷たかった。

 当時、あるジャーナリストが政府高官に、戦後のユダヤ系避難民の受け入れ数を尋ねたところ、「None」(無し)、取り繕うように「is too many」 (多数は)と返ってきた。受け入れが念頭になかったことがうかがえる。

 

■カナダ入国への道

 日本に滞在した杉原ビザ受給者でカナダ入国を果たした人々は、カナダの「戦中のみ有効」というビザを次のような立場で取得した。

•農業従事者として。
•カナダに住む親戚や友人を保証人として。
•避難民受け入れ数1000の枠で。
•専門家向けの特別枠で。
•英国軍ポーランド人部隊に志願し、カナダで軍事訓練を受けるため。

 ビザ受給者は数年後、それぞれカナダ永住ビザを取得した。その中の一組、ナテック・ブルマンと妻ゾシア(当連載1回)の長男でブリティッシュ・コロンビア大学名誉教授のジョージ・ブルマンさんはこう語る。

 「生物工学を勉強した父は、東京のカナダ公館で専門家25人を対象とする入国ビザを得ました」。だが、当初それはナテック一人分だった。翌日、ゾシアは自ら同館に出向き館員を説得。夫婦でのカナダ渡航がかなった。

 「両親はカナダが二人分の入国ビザを発給してくれたことにとても感謝していました」とブルマンさん。

 1945年に戦争が終了しても、カナダの排他的移民政策はしばらく続いた。人口増と労働力増強の必要を迫られ、キング首相が移民制限緩和の声明を読み上げたのは1947年5月であった。

 

●参考文献
• Irving Abella and Harold Troper, None Is Too ManyーCanada and the Jews of Europe 1933-1948, University of Toronto Press, 2012.
• Claude Bélanger, Why did Canada Refuse to Admit Jewish Refugees in the 1930's?, The Quebec History Encyclopedia, Marianopolis College, 2006. fculty. marianopolis.edu/c.belanger/quebechistory/readings/CanadaandJewishRefugeesinthe1930s.html
• ヴァレリー・ノールズ著、細川道久訳、『カナダ移民史 多民族社会の形成』、明石書店、2014年。

(取材 高橋 文)

 

 

ベルナード・カプランと妻ナディア(当連載2回)。ナディアの両親が農場経営者として前年にカナダに入国していた。オンタリオ州ウィリアムズタウン、1941年。(ノーミ・カプラン提供)

 

ミエテック・ランパート(当連載16回)。英国軍ポーランド人部隊に志願し訓練のためカナダに入国した。英国、ロンドン、1947年。(アイリーン・クラー提供)

 

 

 

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