2017年9月14日 第37号

杉原ビザ受給者の中には、「約束の地パレスチナ」(現イスラエル)に戻ろうという「シオニズム運動」の信奉者シオニストたちがいた。

 

29年ぶりに再会した杉原千畝とゾラフ・バルハフティク、イスラエル、1969年9月(NPO杉原千畝命のビザ 提供)

 

■パレスチナへのルート

 「行き先はどこでもよい。とにかくビザ取得が先決だった」

 1948年のイスラエル独立後、後に宗教大臣になったゾラフ・バルハフティクは、彼の著書『日本に来たユダヤ難民』(邦題)で書いている。

 弁護士ゾラフ・バルハフティクは、戦前、ポーランドのワルシャワでパレスチナ委員会副議長を務めるシオニストだった。1939年9月、第二次世界大戦が勃発すると、家族を連れてワルシャワから逃走。リトアニアのビリニュスで、「ポーランド難民パレスチナ委員会」の責任者となる。任務は、ユダヤ系避難民を独ソによる分割が進むヨーロッパから脱出させ、パレスチナに移住させること。

 バルハフティクらは、当時パレスチナを委任統治していた英国から「パレスチナ移民許可書」や、通過する国々からのビザ入手に奔走する。必要ならば、書類の偽造はいとわなかった。無数の手紙を書き、電話をかけ、電報を打ち、世界中の関係者や関連機関に、避難民の窮状を訴えて助けを求めた。しかし、ほとんど無視される。

 1940年6月、ソ連がリトアニアに進駐。脱出作戦は時間との闘いになる。機を逸すれば、リトアニア出国が不可能になる。それともシベリア送りかだ。

 パレスチナへ向かう「ソ連・トルコ経由」ルートは、戦争の拡大と共にトルコ国境が閉鎖され断念。残るは、「ソ連・日本経由」だった。

 

■日本通過ビザ発給を交渉

 1940年7月18日、バルハフティクは避難民からの代表5人のうちの一人として、カウナスの日本領事館で領事代理・杉原千畝と会い日本通過ビザ発給を交渉する。しかし杉原は、多くの避難民が、ビザ発給に必要な最終目的地のビザを持たず、渡航費なども十分に所持していないことを知り当惑。対応を日本の外務省に電報で問い合わせる。領事館を取り囲む避難民らはその回答をじっと待つ。幸い、数日後、ビザ発給が始まった。

 同年8月、ソ連はリトアニアを併合。ソ連からの命令で外国公館は次々と閉館。しかし日本領事館では杉原と館員が、避難民へのビザ発給に忙殺されていた。

 バルハフティク夫妻は、7月30日、日本通過ビザを受給。10月19日、敦賀港に到着。翌41年6月5日、横浜から氷川丸に乗船し、同月31日、バンクーバーに着いた。その後バルハフティクは、妻子をモントリオールに残し、米国でユダヤ系避難民の救援活動を続けた。。

 

■カナダに来たシオニスト

 バルハフティクの前掲書に、彼が日本を去った後、神戸に残っているシオニストの一人ヨナ・ブラバーマンから状況報告を受けたとの記述がある。シオニストの一派が、パレスチナ移住のためのビザ申請書類を神戸の英国領事館へ独自に提出し拒否された。同領事館では、書類の真偽を注意深く見はじめたというものだ。

 ブラバーマンも、40年8月14日、杉原から日本通過ビザを受給。41年1月3日、神戸到着。同年7月17日、横浜出帆の平安丸に乗船し、8月2日、バンクーバーに着いた。その後モントリオールに移動する。

 2014年6月、ヨナの長男イマニュエル・ブラバーマンさんをモントリオールの自宅に訪ね取材した。

 イマニュエルによると、父ヨナは戦前、ポーランドのウッチ市でヘブライ語の教師だった。

 大戦勃発から5日後の1939年9月6日早朝、警官がブラバーマン家を二度訪れる。午前6時にヨナへ、7時に17歳のイマニュエルにポーランド軍からの召集令が渡された。二人はそれぞれ出発。

 イマニュエルは従軍中、ソ連軍の捕虜となる。その後、同軍ポーランド人部隊に加わりドイツ軍と戦う。45年1月、ソ連軍から解放された。終戦後、モントリオールで父ヨナと再会。ポーランドに残った母はホロコーストの犠牲になっていた。

 

■約束の地に立った

 シオニストたち  ヨナ・ブラバーマンは、1950年代、カナダからイスラエルに単身で移住。89年、そこで亡くなった。

 一方、シオニストの指導者ゾラフ・バルハフティクは、1947年、家族と共にパレスチナへ渡る。イスラエル建国に尽力し、48年、同国「独立宣言」の署名者の一人として名前を連ねた。

 宗教大臣を務めていた1969年9月、エルサレムを訪れた杉原千畝と再会。29年前、カウナスで杉原がユダヤ系避難民へ大量の日本通過ビザを発給したのは、日本政府の許可の下ではなく、杉原の自己犠牲に基づく決断であったことを初めて知る。

 1985年1月、イスラエルは杉原千畝に、同国で最も名誉ある「ヤド・バシェム賞」(諸国民の中の正義の人賞)を授与。翌86年7月31日、杉原は永眠した。

 2002年9月26日、バルハフティク逝去。自著に、杉原は「善悪を見極め、正直に行動した人だった」と書き残した。

 

●参考文献
・ゾラフ・バルハフティク著、滝川義人訳「日本に来たユダヤ難民ヒトラーの魔手を逃れて/約束の地への長い旅」原書房、2014年
・渡辺勝正「真相 杉原ビザ」大正出版、2000年
・杉原幸子「六千人の命のビザ」大正出版、1998年

(取材 高橋 文)

 

 

ゾラフ・バルハフティク(後列中央)と長男エマヌエルを抱いた妻ナオミ(中央)、横浜からバンクーバーに向かう氷川丸船上、1941年6月(ヤド・バシェム提供)

 

ヨナ・ブラバーマン(上から2列目、右から二人目)、ユダヤ系避難民らと、神戸、1941年(The American Jewish Joint Distribution Committee提供)

 

ポーランド外交官の公式礼服で、同国政府からの信任状イマニュエル・ブラバーマンさん、モントリオール、2014年6月(2015年3月没)

 

 

 

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