2017年6月8日 第23号

ナチス・ドイツのポーランド侵攻で、身の危険を感じたのはユダヤ系の人々ばかりではなかった。非ユダヤ系にも戦慄が走り、ポーランド脱出を図る人々がいた。

 

ゾフィア・ミクロウスキに発給された国際連合国際難民機関によるカナダまでの旅行証明(アンドルー・ミクロウスキ提供)

 

■ヨーロッパ情勢観察し逃亡

 「ミクロウスキ軍需・化学産業」。かつてポーランドにあった企業だ。日本やインドを含むアジアをはじめ、中近東の国々とも輸出取引をしていた。この会社を創設したミクロウスキ家は、ポーランド経済のみならず、絵画などの芸術領域でも知られるワルシャワの名門。その名家出身のヤヌス・ミクロウスキは、大学で経済学を修めた後、家業の石炭・鋼鉄分野の代表としてしばらくドイツにいた。その間、同国内の物流のみならず、ヒトラー率いるナチス・ドイツの台頭とそれに伴うヨーロッパ情勢を観察する。

 ポーランドに戻り、1939年9月、ドイツがポーランド侵攻を始めると、ヤヌスはいち早くワルシャワから逃亡。彼のようなエリートたちは、軍事・諜報訓練を受けているとみられていたので、逮捕のターゲットになったからだ。

 ヤヌスは東に移動し、リトアニアでゾフィアというポーランド人女性と結婚する。二人はヨーロッパ脱出を図ろうと、1940年8月17日、カウナスの日本領事館で領事代理・杉原千畝から日本通過ビザを受給。その後、ソ連を通過して、ウラジオストクから敦賀に上陸。41年2月25日、神戸に到着した。

 

■警察からの疑い

 二人は東京へ行き、帝国ホテルに滞在する。ミクロウスキ家は日本とも商取引があった関係で、滞在費には困らなかった。新婚旅行でもしているかのように、景勝地、国立公園、温泉巡りを楽しむ。その間、太平洋戦争を前に、港や山を背景に演習を行う日本海軍や空軍の様子をヤヌスの目は見逃さなかった。

 そんな彼にある日、日本政府と関係するポーランド人が警告した。「すぐに日本を出るように」と。あちこち見て回り、海岸に出没する二人を日本の警察がマークしているという。

 急ぎ汽車で長崎へ向かう。そこから渡った上海で、1943年、息子のアンドルーが生まれた。  

 

■ユダヤ系ではなかったビザ受給者

 現在オタワに住むアンドルー・ミクロウスキさんは、両親のヤヌスとゾフィアは杉原ビザを受給したが、「ユダヤ系ではなかった」と話す。

 ビザが不要だった上海には、ヨーロッパから逃げてきた多くのユダヤ系避難民が生活していた。だがユダヤ系ではないミクロウスキ家とつきあい、アンドルーと遊ぶ子供はいなかった。一人でいる彼に、「父は軍隊の作戦について教えてくれ、時間をつぶしてくれた」と振り返る。

 終戦後の1952年、家族でカナダのバンクーバーに落ち着く。

 同50年代、ヤヌスは日本からカナダへ、金属製品、木製品、手塗り陶磁器などを輸入。特に日本製の壁張り用ガラスクロスは品質の良さで人気だった。

 「メイド・イン・ジャパンは粗悪という通念があった頃、父は優れた日本製品をカナダに紹介した。かつてヨーロッパ脱出を助けてくれたスギハラと同じ日本人や日本に対する感謝があったからだと思う」こうアンドルーは語った。

 

■もう一組の非ユダヤ系ビザ受給者

 バンクーバーには、ユダヤ系ではなかった杉原ビザ受給者がもう一組住んでいた。ジョージ・ブルハクと妻のワンダだ。当連載9回に登場したイザ・ラポンスさんの両親はブルハク夫妻と親交があったので、イザは二人のことを覚えている。

 ワンダは、ポーランド第二共和国(1918年〜39年)の初代国家元首ユゼフ・ピウスツキの2番目の妻の姪だった。

 ピウスツキ政権は第一次世界大戦後のポーランド・ソビエト戦争で勝利する。また、反独方針も掲げていた。ピウスツキ自身は1935年に没しているが、彼の親族にとって、独ソのポーランド侵攻は脅威となる。

 一方、夫ジョージは、第一次大戦中、ピウスツキの私的軍隊で武勲をあげた戦士。ワンダと共に逃亡を迫られたことは想像に難くない。

 二人の名前は、杉原千畝が作成した日本通過ビザ発給表で連番で載っている。

 しかし、1940年11月に福井県警察部が作成した同年10月分敦賀港上陸のユダヤ系避難民の表ではジョージの名前はあるが、ワンダの名前はない。杉原ビザは、「敦賀上陸」を指定しているので、彼女もここを通過したはずだ。

 この表では、幼い子供であろうと、上陸者の名前や年齢が几帳面に記されている。しかし、どこを見てもワンダの名前はない。

 敦賀港に杉原ビザ受給者が到着した期間の上陸者表は、現在までのところ、この10月分のみが日本の外務省外交史料館で発見されている。他の月の表が発見されていないので調べようはないが、ワンダは何らかの理由でジョージと一緒に敦賀上陸をしなかったか、あるいは別の理由が考えられる。

 バンクーバーで二人は、ブリティッシュ・コロンビア大学に近い住居ビルのペントハウスに住んでいた。

 ジョージは不動産業に携わるとともに、写真家としても活躍した。彼の『ビューティフル・バンクーバー』という写真集が今もバンクーバー公立図書館に保存されている。彼は1960年代に亡くなったと思われる。

 ワンダは静かで控えめな女性だったとイザは言う。ポーランドでの出生や政治的つながりについては人前で話さなかった。多くの時間をバンクーバー総合病院で、年配の入院患者の食事の世話や、見舞客のない患者の話し相手になって過ごした。

 彼女は、1990年3月22日に亡くなったことが、やはり同図書館所蔵バンクーバー・サン紙のマイクロフィルムで分かる。

 「多くの友人や、ポーランドの家族によって忍ばれた」とあり、通夜の祈りは市内のポーランド系カトリック教会で執り行われることが告知してあった。

(取材 高橋 文)

●参考文献
Andrew Michrowski , What can we learn from the life of ZOFIA BIELSKA MICHROWSKI ー a pioneer and example of things yet to come?, 2013.
伊東孝之、「ポーランド現代史」、山川出版社、1 9 8 8 。
福井県警察部、「拾月分猶太避難民入國者表」、外交史料館所蔵、1940。 

 

福井県警察部作成、「拾月分猶太避難民入國者表」より。右から3 番目にジョージ・ブルハクの名前。妻ワンダの名前がない(外交史料館所蔵)

 

アンドルー・ミクロウスキさん、オタワ市内、2015 年5月

 

ワンダ・ブルハク、バンクーバー市内、1960 年代前半(イザ・ラポンス提供)

 

 

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