太平洋を渡った杉原ビザ カウナスからバンクーバーまで

2017年2月2日 第5号

ノーミ・カプランさんは、77年前、父と兄と一緒に乗ったモスクワ行きの汽車の窓から、外をじっと見ていた。もうすぐ発車する。その時だ。母が、手に持った紙を振りながら、ホームを列車の方へ走ってきた。

 

ベルナード・カプランの安導券。(ノーミ・カプラン提供)

 

■思い出をおいて出発

 ノーミ・カプランは、1933年、リトアニアのメーメルで生まれた。現在、クライペダと呼ばれるバルト海に面した海港都市だ。父ベルナード、母ナディア、兄イゴーと共に、海辺に立つ家に住んでいた。

 父は、たばこ組合の重役で実業家。母は肖像写真の勉強をして、写真スタジオを持っていた。

 兄は学校に、ノーミは保育園に通っていた。安全な町だったので、子供だけで歩くことも遊ぶこともできた。

 1939年3月、メーメルはドイツ領となる。ヒトラーの反ユダヤ主義について聞いたカプラン一家は、ある日、車に乗って住み慣れた家を後にした。

 移動していく途中の町では、窓にナチスの旗の写真が飾られてあった。

 

■車の窓から杉原ビザ

 父は、トルコのパスポートとリトアニアの安導券(交戦国内を安全に通行するための保証書)を持っていて、イゴーとノーミの名前も載っていた。しかし、母は、リトアニアのパスポートしか持っていなかった。

 1940年8月、ソ連がリトアニアを併合。リトアニアはソ連邦の構成共和国となる。

 一方、カプラン一家は、先にカナダに来ていた親戚に合流するため、ソ連領リトアニアを出ようとする。経由する日本のビザをもらいに、カウナスの日本領事館へ行った。だが、ソ連からの命令で閉館。ちょうど、領事代理・杉原千畝一家が車で市内のホテルへ向かうところだった。

 杉原は、車の窓から父の安導券に日本通過ビザを書いてくれた。しかし、ソ連のリトアニア併合で、もはや有効なパスポートを持たない母にビザはもらえなかった。

 

■懇願の末に出国許可

 ソ連領リトアニアを出るのにも、父と、父の安導券に名前が載っている兄とノーミに問題はない。しかし、ソ連人となった母がソ連を出るには許可が必要だ。

 母は何度もソ連当局に足を運んだ。そのたびに、「なぜ、出たいのか。ここでよい生活をしているではないか」と言われ、許可は下りない。

 「子供たちと一緒に行きたい」と懇願を重ねた。

 やっと渡された出国許可書を手に、母が駆けつけたのはカウナスの駅。そして、家族が乗車して待っていた発車間際のモスクワ行きの汽車に飛び乗った。

 

■家族で着いたカナダ

 シベリア鉄道で極東の港町ウラジオストクに着くと、日本総領事館に向かった。ここで母はなんとか通過ビザを手に入れる。そして日本の船に乗った。

 敦賀港で、ノーミが父に抱かれて船を降りると、見学していた日本人がノーミの髪に触れた。父が、「日本人の髪の色と違うから」と言った。「でも怖くはなかった」とノーミは振り返る。

 神戸からカナダ船に乗り、1940年10月23日、バンクーバーに着いた。

 杉原ビザについて知ったのは、ずっと後になってからだ。現在、バンクーバーで静かに暮らすノーミ。箱一杯に入った杉原千畝に関する記事や写真を披露しながらこう語る。

 「ユダヤ人という理由で殺されるべきではない、助けてやりたいというスギハラの思いは、数千人の命を救い、子孫の誕生につながった。この世にはなかったかもしれない多くの命を救ったことは、歴史上ほんとうに素晴らしい出来事でした」

(取材 高橋 文)

 

安導券の裏面。左上、杉原千畝発給の日本通過ビザ。左下、ソ連出国/通過ビザ。右上、1940年10月23日の日付のあるカナダ移民局のスタンプ。(ノーミ・カプラン提供)

 

逃亡途中のリトアニア、シャウレイで。左から、兄イゴー、父ベルナード、ノーミ。1939年。(ノーミ・カプラン提供)

 

逃亡途中のリトアニア、シャウレイで。左から、母ナディア、兄イゴー、ノーミ。1939年。(ノーミ・カプラン提供)

 

 

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