2017年11月30日 第48号

 

 

イラスト共に片桐 貞夫

 

 それだけのことであった。その日はもう美重子がなにを言っても老婆は口を開こうともしなかった。しかし、美重子は異様なものを目にしてしまった。

 老婆の左手首に古い傷痕を見た。よじれた皺で見極め難かったが、一文字の盛り上がった創痕が何本も平行してはしっていた。自殺を図ったあとに違いなかった。

 美重子は改めて老婆の顔を見た。疲れを覚えたのか生彩がない。ふたたび目が焦点を失っていた。

 美重子にいいようのない悲しみが襲った。

 …お婆ちゃん、どんな苦労をしてきたの。なにがそんなにつらかったの…

 死ぬこともできずに生き長らえてきた老婆の人生とはなんなのか。なにが老婆をして幾度も手首を切らせたのか。乾ききった白髪は乱れ、何本も残っていない歯があかい。年齢不明なほどに皺だらけの老婆ではあるが目尻が長く切れ上がっている。鼻筋が通って首が細い。女である美重子に、老婆が若い頃、日本美人であっただろうことが判った。

 次の土曜日であった。美重子は体操を教えたあとのティーの時間、老人たちが別室に去った合間を利用して老婆に近づいた。二人だけになれば身の上ばなしの一つもするかも知れない。悲しい思い出の一部でも聴いてやり、少しでも重苦の荷を軽くしてやりたいと思っていた。

「おばあちゃん、あたしよ」

「…」

 老婆は美重子を見た。しばらく見てからあかい歯を見せた。そして、海を見たいというようなことを言った。

「見せてあげるわ…」

 美重子に、老婆の言う海を見たいという意味が判るような気がした。

「…見せてあげるからちょっと待っててね」

 美重子は、係員に二時間ほどの外出許可を申し出た。

 老婆は足腰の衰えに杖を使い、ゆっくりではあったが自力で車に乗った。

 美重子はハンドルを握るとバンクーバーの街なかを西行した。日本の方向、西海を望むキツラノ・ビーチに車を止めた。

 海を目にした老婆が憑かれたようにドアを開けた。外に立った。

 曇がたれ込めている。人影もない松の合間に水平線が見える。海風に潮の香りが甘かった。

 老婆は歩いた。一歩一歩、波うち際に向かって歩いている。砂のはじまるところに来て歩が前に進まなくなった。それでも老婆は何歩か歩いた。膝をついた。細い身体が前に折れた。しかし顔を落とさない。水平線から目を離さない。

 美重子は車のそばに立って見守っていたが、海風に夕暮れの冷たさを感じるようになってから老婆に近づいた。

「お婆ちゃん、どう。見えた? ふるさとが見えたの?」

 老婆が故郷を偲んでいることが分かった。日本地図の索引で「ヨリイ」を見つけた美重子は、老婆が秩父に近い山間の田園風景に思いを寄せているように感じられたのだ。

 美重子は老婆の脇に腰を下ろした。

 一緒に黙って坐っていた。春浅い陽のない浜辺に海風を受け、寒さを感じてはいたが動かない。老婆は一片の帆影すらない黒い海を喰い入るように見つめている。日本の沖合で湧き出た黒潮は長い月日をかけて太平洋を渡る。カナダの岸辺に当たって消えていく。

 美重子は、老婆が故郷に最後の別れを告げているような気がした。瞬きすら忘れた眼差しに、ほどなく消沈しようとする自らの肉体を黒潮にたとえているように感じられた。

 老婆の手が砂をつかんだ。海風に砂をとばした。その時、美重子の目がその場にそぐわぬものを見た。むき出た老婆のすねに桜花の模様がある。「芳」の一文字がはまっていた。刺青特有のくすんだ青が乱れたスカートの裾からのぞいたのだった。  

 

   三、たなばた

 不破美重子は、翌日もノンフィクション作家山田明子の案内をかって出た。山田は時間的余裕がなく二日後にはアメリカのサクラメントに発たなければならないという。

 アルバイトとしてやっている翻訳の仕事がたまっていたが、美重子は青田チヨのことがあって、まだする気になれない。山田が行きたいという日系人ゆかりの地、スティーブストンやカンバーランドは、どうしても土地に明るい人間の案内が必要であった。

(続く)

 

 

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