4 アフリカに対する援助
先進国と途上国の関係は、私は都市と農村の関係に擬してとらえています。もともと都市の経済の成り立ちは交易にあり、交易によって都市と農村間の分業が生まれ、都市にはその後の分業が発展して工業が生みだされたといわれます。その結果、都市の発展は一次産品の市場を牛耳ることとなり、都市に資本蓄積が進むことで、食料、原料、エネルギーの供給元として農村の都市に対する従属関係が進みました。これと同様に、19世紀末、ヨーロッパの帝国主義諸国は富国強兵をめざして世界各地で分割を進め、植民地を資本主義体制に組み入れて植民地から工業国に農・鉱産物を供給する経済構造をつくりあげました。その中心舞台となったのがアフリカで、それまで空白が多かった世界地図は20世紀初頭までにほとんど列強の勢力により塗りつぶされることになりました。

アフリカの低開発論には大きく言って二種類があります。その一つは、先進国は搾取を通してアフリカ諸国を踏み台にして発展してきたのであり、裕福な先進国がますます発展するのと反対に、負の遺産を抱えるアフリカはますます置き去りにされる「構造的な従属関係」にあり、そこからの脱却には先進国は途上国を援助する責務があるというものです。もう一つは、途上国の多くが植民地から独立して数十年を経ながら、アジアの途上国と比較しても多くの援助を得ているのに貧困度が深刻化して一向に改善する様子がないのは、アフリカの社会状況や政府のあり方に問題があり、もういい加減に他人のせいばかりにしないで自らもっと努力すべきとの主張です。

アフリカと一口にいっても国によってそれぞれ異なりますが、大きく言ってサハラ砂漠を境に北部はアラブ文化圏、地中海文化圏に属しており、サハラ以南とは全く異なる社会や文化を形成しています。本稿では主としてサハラ以南のアフリカ、いわゆるサブサハラ・アフリカについて述べます。第二次大戦後の冷戦時代からポスト冷戦時代にかけて、アフリカは常に周縁化された存在となってきました。冷戦時代にはアフリカ諸国は東西両陣営の草刈場となり、ポスト冷戦時代には紛争、貧困、重債務、HIVエイズ等の感染症、人口増、砂漠化、難民等のいわゆる地球規模の問題(グローバル・イシュー)のほとんどを抱えるに至っています。アフリカ大陸には、本年独立した南スーダンを加えると計54カ国(南スーダンを含めるとサブサハラ・アフリカ48カ国)が存在しており、数の上では国連加盟国193カ国の約28%を占めています。またアフリカ諸国の連帯と協力のためにはアフリカ連合(AU、前身はアフリカ統一機構OAU)が存在します。アフリカ全体では人口は約十億人で世界の約15%を占めており、世界の中で一大勢力です。

5 冷戦時代のアフリカ
60年代にはアフリカ諸国は意気軒昂で、西欧の宗主国から独立した反動と、当時の東西冷戦下の政治環境もあって、多くの新生途上国は左傾化、東側陣営の影響を大きく受けました。共産化、社会主義化した多くの政府のもとでは経済統制が敷かれて、企業の接収や国有化がすすめられました。アフリカにおける70年代初頭の最大の政治イシューは、南部アフリカにおける植民地の解放でした。当時、アンゴラ、モザンビーク、ローデシア(現ジンバブエ)、ナミビアがまだ独立しておらず、これらを取り巻くハブの存在がアパルトヘイト体制下の南アフリカでした。これらの国々はポルトガルの政変によりその植民地であったアンゴラ、モザンビークが75年に独立したことを皮切りに、次々に独立しますが最終的に南アにおいてアパルトヘイト体制からの民主化が結実するのは冷戦終結後の90年代に入ってのことです。

ほとんど民族資本をもたず、ながく植民地体制下にあったアフリカ諸国にとっては、左傾化はいわば「残された選択肢」であり、他の方策をとり得たとも思えません。経済が政府主導下におかれることで、需要に即した供給がおこなわれず、市場の要求にこたえられない流通体制となり、人々は労働意欲をうしない、それがまた経済の後退となって悪循環を生むことになりました。また、アフリカ諸国では政府組織が未成熟であるために、援助をうまく活用できなかったり、援助が一部の指導者のふところに入ったり、受入国の実情にそぐわない高度な資機材であるために無用の長物と化したりと、所期の目的を達成できなかったケースが頻発しました。それでも多額の援助が流入したのは、東西両陣営による綱引きがあったからです。さらに70年代の後半には、一次産品の世界市況における値下がり、天候異変による旱魃、石油危機後の石油高騰が外貨支出を圧迫して、ただでさえ脆弱な経済に追い打ちをかけました。その間、宗主国から受け継いだアフリカ諸国の多くのインフラは、維持管理や再投資を行わなかったために老朽化がすすみ生産や生活におおくの支障がでてきました。

その結果、70年代終盤から80年代初頭にかけてのアフリカ諸国の経済は壊滅的な状況となりました。停電や断水の頻発、運輸手段の信頼性低下、外貨不足による厳しい外国為替管理が行われました。その結果として生活必需品の不足がおこり、そうなると一般の国民は勤めどころではなく生活を維持するのが精いっぱいになり、かくして国家の「表の経済」はますます停滞することになりました。先述のように、私は70年代から80年代はじめにかけて東アフリカのタンザニアにいましたが、当時、少数とはいえ日本の企業が現地に進出して生産をおこなっていました。しかし、そのいくつかは上記のような社会情勢に加えて、政情不安や政府による過度の規制・賦課にたまりかねて撤退を余儀なくされました。

80年代になると、アフリカ諸国は70年代の財政赤字の累積、国際収支の悪化、債務増大で身動きがとれなくなりました。その結果、世銀・IMFの主導による西側諸国の「経済構造調整計画」により、公共部門の縮小と経済の自由化がもとめられることになりました。同計画は、より市場原理に即して政府介入を少なくして、民間セクターの活力で所得向上を目指すもので、債務者であるアフリカ諸国は、債務の繰り延べや棒引き、追加融資と引き換えにこれらの国家財政の改善条件をのむことになりました。この計画の実施には当時より反対もありました。結果としてその心配は的中することになり、国民の多くが十分な教育も得ておらず、技術や定職もない脆弱な社会に自由競争を持ち込めば貧富の差はますます拡大して、社会的弱者はより困窮することが明らかになりました。この失敗に対する反省もあって、90年代にはいっての国際的な援助潮流は貧困削減が主たる課題として浮かび上がってきました。因みに、貧困対策や人間の基本的ニーズ(Basic Human Needs_BHN)の考え方は、すでに70年代の援助において重視されており、90年代にはじめて出てきたものではありません。特に日本のODAにおいては、教育や技術の向上をとおして途上国の貧困からの脱却と自立化を主要課題にしていたことから、既定の路線でもあったわけです。かくしてアフリカをはじめとする貧困諸国のために、2000年には、2015年までに貧困を90年レベルから半減させる「ミレニアム開発目標(MDGs)」が国連総会で採択されることになりました。

続く

 

2011年11月10日号(#46)にて掲載

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