1 成熟社会をめざして
日本の生活を再開して、あらためて最近の日本は元気がなくて迷走状態であることを痛感します。海外に棲んでおられる皆様は、いわば日本国内で籠城している内向きな同胞に対して、城外から元気な活力を吹き込みたいと気を揉んでおられるのではと想像します。特に、私を含む団塊世代は、70年代から90年代にかけて遮二無二行動して無茶もやった、だけどあの頃は元気だったと最近の日本の沈滞ムードに切歯扼腕しておられるのではないでしょうか。
70年代、当時、日本は高度成長時代にあって多くの日本人が団体で外国旅行をはじめました。物珍しさと団体の気安さもあって、つい羽目を外してひんしゅくを買うこともあったのでしょう。ある雑誌で、「みにくい日本人」と揶揄される日本の団体さんをどう思うかと、文化人類学者の梅棹忠夫博士に問いが投げ掛けられました。梅棹博士は、「日本人だけではないですよ。戦後のある時期アメリカ人観光客はヨーロッパ人からアグリー・アメリカンと呼ばれ、それ以前には英国人もアグリーと呼ばれた時代があった。国民生活が成熟する過程では、そうした時代があるもので、いずれ日本人も洗練されるでしょう」と答えられた(正確な記憶ではないですが)のを読んで、その炯眼に感銘を受けたことを憶えています。その通り、いまでは韓国や中国の団体さんが似たようなことを言われて世界各地を席巻しています。
日本は閉塞社会ではなく成熟社会であるはずです。今回の大震災で世界各国から親身になって多くの支援が寄せられました。これは日本が長い間に築いてきた外国との良好な関係の証左と思います。ポスト冷戦時代以降、最近に至る世界の経済を振り返ると、ASEAN、NIEs(Newly Industrializing Economies 新興工業経済地域、通常は台湾、韓国、香港、シンガポールを指す)が元気になり、新興国が活発となり、近年、アフリカにも日の目があたってきています。これら諸国の発展は、もちろんそれら諸国の国民の努力によるものですが、アジアにおいては日本の協力が果たした功績も大いに評価できると考えています。90年代に入ってバブルがはじけ日本経済が右肩下がりとなると、それに伴いあたかも国際社会における日本の存在や役割がすべてしぼんでしまったかのような風潮が広がりつつあります。戦後、日本が一貫して取り組んできた経済の復興と発展は、物質的に豊かで便利になるためだけの「浮かれた存在」ではなかったはずです。日本が経済の繁栄を享受するということは、それにふさわしい国際社会に対する貢献があってしかるべきで、国家の成熟とはそういうものだと考えます。日本の途上国協力は改善や反省を必要とする面もあるとは思いますが、少なくとも日本は多くの局面で今日の地球規模の問題に積極的に役割を果たそうと努めてきたはずで、これからもそうあるべきと考えています。

2 日本の援助
1970年、私は大学卒業と同時に青年海外協力隊に参加して、羽田を発って東アフリカのタンザニアに向かいました。そして、81年までの11年間をタンザニア政府に所属して、北西部のムワンザ州の畜産事業にたずさわりました。その後、外務省に入った後も開発途上国、とくにアフリカに多く関わってきており、これらの分野は、私にとって日本の外交史を見る上での大きなよすがとなっています。特にアフリカは、一見、日本と縁遠く周縁化された存在ですが、離れた存在だからこそ日本がよく見えるとも言えます。しかし、日本の途上国援助を語るには、その重要な特徴の一つである「アジアの成長支援」を抜きにしては語れないので、まずは途上国援助の概要とアジアに対する援助について述べながら、本題のアフリカの開発問題に入っていきたいと思います。
日本が、途上国に対して政府開発援助(ODA)を実施している目的は、人道的なもの以外にもいくつかあります。原料やエネルギーの安定的確保のためには途上国の政治経済が安定している必要がありますが、同時に日本の投資や輸出市場拡大のためにも途上国との関係は良好でなくてはならず、また途上国が発展して購買力をつけてくれる必要もあります。もっというと援助とは友好関係を構築することにより、日本の外交上の安全保障を高める方策の一環でもあります。もっとも、あくまでそれは一環であり、安全保障とは他の要素も相互作用してこそ効果を発するものですが、戦後の日本にはいろんなトラウマがあって、そこら辺が不十分なまま進んできたと思います。いずれにしても、ODAは途上国に対する一方的な施しではなく、「持ちつ持たれつ」の関係にあるもので、特にアジアにおける日本のODAは、こうした双方向的で良好な関係を実現する上で重要な役割を担ったといえます。
日本のODAは、1954年に東南アジア開発を目的としたコロンボ・プランに加盟したことに始まります。当時は援助がアジア諸国への戦後賠償の意味合いもありましたが、いろんな面で日本に近いアジアに対して、それ以来、日本はながく重点的に援助を提供して来ました。50年代から60年代は、まだ日本の一般市民の生活は衣食住すべてにわたり戦争の痛手が色濃く影を落としていましたが、戦後つぎつぎに独立したアジア・アフリカ諸国は意気軒昂で、55年には、アジア・アフリカ会議(バンドン会議)があり、60年はアフリカの17カ国が独立したことで「アフリカの年」と呼ばれることになりました。また61年には非同盟会議が結成されて、第三世界の連帯運動が始まりました。64年には東京オリンピックが開催されましたが、これはアジアで最初のオリンピック開催であっただけでなく、アジア・アフリカ諸国が独立後に初参加した大会でもあり、敗戦後に日本が国際社会に復帰したシンボル的な意味合いをもちました。
戦後まもなく国際復興開発銀行(IBRD)、すなわち世界銀行が発足しました。当初の目的は欧州をはじめとする先進国の復興でしたが、50年代頃より世銀は途上国開発に対して積極的に取り組むようになりました。世銀には「途上国に不足する資本や外貨を譲許的な条件で提供してインフラを提供すれば、途上国の低廉で豊富な労働力をつかって生産を高め、成長を図ることが可能となる」という理論がありました。日本も戦後の復興に世銀の融資を受けて、東海道新幹線、黒部第四ダム、愛知用水、東名・名神高速などの国内のインフラ整備を進め、その後の高度成長につなげました。日本は世銀の融資をつかって復興をはたした後は、世銀に対してトップクラスの拠出を行うまでに成長した「世銀理論の優等生」といえます。日本のODAは54年にはじまり、翌年から技術協力を開始、その後、無償資金協力(返済を求めない資金協力)や円借款による有償資金協力(低利や長期の返済条件による譲許的な資金協力)が開始されました。日本のODAはこれら3タイプに加えて、世銀、アジア開銀、アフリカ開銀など国際機関への出資や拠出による協力の4本柱からなります。

3 アジアに対する日本の援助
日本は高度成長に伴い、70年代から90年代にかけて累次のODA中期目標を掲げて援助の量的な拡大をはかり、89年には米国を抜いて世界最大の供与国になり、その地位は90年にいったん下がりますが、91年から2000年の間続きます。その間、重点はアジアでありアジア諸国に対して、日本は円借款を供与して道路、港湾、鉄道、電気、通信などのインフラ整備を積極的に支援しました。また、円借款と同時に、教育、医療、農業などの技術協力や無償資金協力が提供されたことで、それら諸国の教育や医療レベルを向上させることに役立ちました。日本がODAの累次の拡大を実施できた背景には、日本国民の高い貯蓄率による財政上の余裕、企業の強い国際競争力による経常収支の大幅黒字があった「財布の事情」もありますが、貧困を抱えるアジア諸国の中で高度成長により日本だけが一人勝ちすることは許されないとの配慮があったこと、また、諸外国、特に米国から強い外貨減らしの圧力をかけられた「貿易摩擦」をすこしでも解消することも大きく作用しました。
他方で、85年にはプラザ合意により急激かつ急速に円高が進み、日本の企業の円高対策でアジア諸国を含めて海外に生産拠点を移す直接投資が進みました。80年代はまだ国際金融市場が十分に発達しておらず、また途上国の国際金融市場からの資金調達も限られていたために、アジア諸国にとって円借款によるインフラ整備は、日本の直接投資を受け入れる基盤整備に重要な役割を発揮しました。これに加えて、日本からの投資や輸出に対しては、投資金融、輸出金融、貿易保険による支援が提供されました。こうしたアジア諸国と日本の企業の直接投資や貿易の緊密化は、技術協力や無償資金協力による教育や医療レベルの向上も加わり、アジア諸国の生産力向上、就業機会の増加、国民所得の向上、購買力の増加、税収による財政の自立化、国際収支の向上につながり、ASEAN諸国、NIEsの経済は上昇スパイラルとなり、日本のODAはアジア諸国の発展に大きく寄与しました。

続く

 

2011年10月27日号(#44)にて掲載

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