SPECIAL 2008
2008年7月10日 第28号 掲載
![]() 『遺産桜』の植樹当時の思い出を語る井上さん |
![]() 日系移民百年を記念して植樹する一世たち。真ん中のTシャツ姿が井上さん |
パウエル街のオッペンハイマー公園に、日系カナダ人の移住百年を記念して桜が植えられたのは1977年のことだ。一世たちの手によって植樹が行われている様子を写した写真が隣組に数枚残されている。その内の一枚に、百年祭の記念ロゴを描いたTシャツとジーンズ姿の女性が写っている。少々緊張したような表情で、桜の木を植えるための穴を掘る人々の手助けをしているところのようだ。この女性こそが、当時61歳だった井上徳子さんだ。
身を切られるような思い
バンクーバー市は東部地域活性化計画の一つとして、オッペンハイマー公園の整備を提案し、今年3月10日に市議会の承認を得た。この整備計画によれば、現在公園東部の中央マウンド周辺に植えられている桜を7本伐採することになっている。これらの木のほとんどが、1977年に一世によって植えられた日系百年祭の記念樹だ。
「私たちが植えた桜が切られてしまうかもしれないと聞いた時は、涙が出てしまいました。知らせてくれたタケさん(山城猛夫氏)と一緒に泣きました。身を切られるような思いっていうのでしょうか」と井上さんは、自分たちの手で植えた記念の桜『遺産桜』が伐採されるかもしれないというニュースを初めて聞かされたときの衝撃と悲しみを語る。
「百年祭を記念して桜を植えようという話が最初どういうふうに出されたかは覚えていません。でも話し合いをしたときには、もう、いっぺんで決まりましたよ。みんな大賛成だった」
井上さんは植樹を決めたときのことを生き生きとした表情を浮かべながら思い出してくれた。
「みんな、そりゃぁ良いことだって喜んで。私たちは長く生きたってしれてるでしょ?でも桜の木は残るから。後々の人にまでね。あの桜を植えた日もみんな嬉しくってね。この桜の花がすぐに咲き出すって言われたので、自分たちがいなくなっても後の人たちが、ただの木ではなくて、記念の桜、移民百年のメモリー、記念として皆に残していくものだったから。命が続いていく感じ…それはそれは嬉しかったですよ」
記念の桜を植えた日のことを井上さんは、まるでついこの間のことのように鮮やかに思い出せるという。それだからこそ、よけいに今回の『遺産桜』の伐採計画には深い悲しみを感じたのだろう。井上さんは、何度も「身を切られるような思い」という言葉を繰り返した。
氷川丸に乗ってカナダへ
井上さんは、1916年に神奈川県の小田原市で生まれた。カナダへ来たきっかけは、遠い親戚だった井上清治(ジョージ)氏と結婚することになったためだ。1937年に氷川丸に乗って、12日がかりでバンクーバーへ渡ってきた。
「井上はガレージ(自動車修理工場)をやっていたのですが、戦争中はケローナに移動してフルーツ農園で働いていました。ケローナには戦争前から住んでいた日系人がいたのですが、その人たちはあまり排斥されないの。でも移動してきた私たちは『コースト・ジャップ』って呼ばれて、45年に戦争が終わったら出て行けって言われて…でも、以前から住んでいた日系人の人たちにはずいぶんお世話になりましたよ」
日本軍による真珠湾攻撃の直後、カナダは日本へ宣戦を布告。西海岸から100マイル(約160km)以内には日系人は居住をゆるされず、カナダ生まれの人も含め、日本人を祖先に持つ全ての日系人が内陸部へ強制的に移動させられた。多くの日系人は廃鉱跡などに作られた収容所か、井上家の人々のようにブリティッシュ・コロンビア州やアルバータ州の農村地帯や道路工事現場などで過酷な労働に従事しなければならなかった。日系人が西海岸に帰ることを許されたのは、実に戦争が終わってから5年もたってからのことだった。
「バンクーバーに戻ってきたのは1951年でした。戦争前はメインとアレキサンダーの近くでガレージをやっていたんです。戦争が終わったら、戦前からのお客様が井上が帰ってくるのを待っていてくれたんですよ。それで岩崎さんというパートナーの人と一緒にまたガレージをやろうって言って…。戦前の店は取られてしまいましたから、バンクーバーに出てきてからは、パウエル街に店を開きました。今は道になってしまっているのですがね」
実は井上さんは『遺産桜』の問題以前にも、バンクーバー市の「都市整備計画」によって辛い思いをしたことがあったのだ。
「井上は44歳のときにそのガレージを再開して、20年間一生懸命に働いたのですが、バンクーバー市が道路を拡張するということで立ち退きさせられてしまったんです。店の敷地は3ロットもあったのですが、市はロットの土地代だけは払うけれども、建物や築き上げてきた信用などに対しては一切補償してくれなかったんです。井上や岩崎さんは、リタイヤするときにそのガレージを売れば、リタイヤ後のためにお金を得ることができると思っていたのですがね」
市当局は代替地の提供を申し出はしたものの、建物の建設費を出そうとは言わなかったという。弁護士を雇って1年も市と掛け合ったが結局らちがあかず、井上氏と岩崎氏は不本意なままガレージを閉店した。
「市の担当者は『もう64歳なのだから、リタイヤすればいいじゃないか』なんて、ひどいことを言うんですよ。日系人は戦争中、9年、10年の間(本来の)仕事ができなかった。ケローナにいたころは1時間25セントで働いていたんですからね。私もオーチャード(果樹園)で働きましたよ」
井上さんが『遺産桜』の植樹に込めた思いには、こうした深い背景がある。単に問題になっている木を移植するとか、新たに木を植えて補えるものではないのだ。植えたその場所で命を伝え続けるからこそ意味があると言えるだろう。
桜シンガーズの40周年記念コンサートで必ず歌う!
井上さんの『遺産桜』への思いは、隣組で出会った人々への思い出にも繋がっている。
「隣組ができた最初の年には、私は新しい家に引っ越したばかりで、ご近所に溶け込むのがまず先だと思って、隣組には行かなかったんです。ご近所の方とボーリングのクラブに入ったりしてましたから。2年目から、隣組にお手伝いに行こうと思ったのですが、ボランティアとしてやり始めるなら、ちゃんと続けたいと思っていました。続けられるかどうかずいぶん考えましたよ。私は車を運転しないので、主人の井上がいつも隣組まで送ってくれたんです」
井上さんのやさしい笑顔とキビキビした仕草は、隣組に集まった人々の中でもひときわ印象的だった。
「私は声が良く通ると言われて、ビンゴのときに番号をコールする役などをしましたよ。あの当時はまだマイクを買うお金が隣組になかったから…」と井上さんは笑いながら言う。その良く通る声は今も全く衰えていない。説得力のある明快な話し方も、知的好奇心にあふれた目の表情も92歳という年齢を感じさせない。しかし残念ながら、井上さんは現在、怪我で痛めた体のリハビリ中で、家からめったに外へ出ないという。
「人がたくさんいるところへ出て、またころんだりしてはいけないとお医者様に止められているんです。でも、9月からは練習にでかけますよ!」と井上さんは力をこめて『宣言』した。井上さんは、バンクーバーを中心に活動している桜シンガーズの創立初期からのメンバー。この合唱団は、あと2年で創立40周年を迎えることになっており、記念コンサートを盛大に行おうと企画しているところだ。
「9月から練習に参加しますって、皆に言ってるんです。40周年の記念コンサートにはどうしても出たいですからね!」
井上さんの生きることへのこうした積極的な姿勢は日系一世の女性たちの多くに共通するものだ。オッペンハイマー公園に咲く桜の凛々しい美しさを思いださせる。
『遺産桜』は、後世の日系人、さらにはカナダ人全体にとって忘れてはならない歴史を象徴するものだ。そして植えられた後も、毎年オッペンハイマー公園で催されてきたパウエル祭、バンクーバー仏教会やアレキサンダー日本語学校の活動など、多くの日系人の歴史を見てきたのだ。この桜を護り、長く伝えていくことは、井上さんたち一世の人々の願いだけではなく、日系社会全体の問題としてとらえられるべきだろう。
井上さんは戦前のパウエル街のにぎわいや、さまざまな思い出を楽しげに語ってくれたが、現在のオッペンハイマー公園周辺は昼間ですら治安が心配なほど。パウエル街周辺の整備と再活性化は長期的な展望で取り組まなくてはならない問題だ。『遺産桜』を護る活動によって、日系人に限らず、より多くの人々がパウエル街の歴史的価値を思い出し、住み良い町作りを進めるきっかけとなるよう、公園の整備計画の見直しをはかっていくべきだろう。
(取材 宮田麻未/写真 神尾明朗)
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